白田マサさんは、娘の坂口玲子さん一家と同居している。マサさんは92歳。膝が悪く、歩きには難はあるものの内臓に大きな問題はなく、基本的に元気なはずだ。しかし…。
マサさんたちの住む高級マンション到着し、玄関先のインターホンを鳴らす。いつもように少しだみ声で威勢のいい玲子さんの声で返事があった。マンション入り口のドアが自動的に開き、坂口家の部屋に向かう。部屋の前に玲子さんがドアを開けて待っていてくださった。「どうですか?」と尋ねると、玲子さんは苦笑いしながら少し首を振り、
「まあ、いつもの通り」
マサさんの部屋に入ると、
「白田さん、こんにちは。いかがですか、調子は?」
とハイテンションに声をかける。しかし、座椅子に座っていたマサさんは、いかにもつらそうな顔をしてこちらに視線を投げかけ、
「だめ、全然だめ。目も耳もだめ。歯も全然だめ」
そういって視線をまた下に降ろした。それから念仏のように
「長く生きてたって、良いことなんてなんもない」
とつぶやいた。
以前は快活な方だったらしいが、ここ数年はこんな調子らしい。玲子さんが、目や耳は難しいかもしれないけど、歯が良くなって食欲が出ると少しは変わるかもしれないと思って僕を呼んでくれたのだ。しかし、初診から3カ月、今のところ大した成果を挙げられていない。
いつものように、総義歯の調整を始める。玲子さんも僕の脇に座って声をかけながら見ていてくれる。外形の調整から噛み合わせの調整。毎回感じるのだが、痛みはいろいろ訴えるものの、顎の動き、噛む力は年齢を感じさせない能力がある。転機があれば、絶対使えるようになると思いながらの調整。
一応、歯医者としてできることを終えた時、玲子さんが、
「お母さん、目も耳も口もだめなんじゃあ、ヘレン・ケラーみたいね」
するとマサさんがすぐに、
「悪口ばっかり言ってんじゃないわよ」
「聞こえてるじゃないの!」
「悪口だけはよく聞こえるのよ!」
と言うと3人大爆笑。マサさんの笑い顔もはじめて見た。
※
その次に訪問した時、玄関先でいつものように僕を迎えてくれた玲子さんが、満面の笑みで指ではOKサイン。ちょっと意外で「どうですか」と尋ねると、「何だかんだ文句言いながら少し食べるようになったのよ。でも先生、きっと大変よ」
といたずらっぽく笑った。
マサさんの部屋にいつものように入ると、右手を大きく上げて、
「あぁ、先生、こっちこっち」
と言って何と笑顔で座布団をすすめてくれた。しかし、
「入れ歯が痛くて痛くて…」
まだまだ僕の苦難も続きそうだ。