訪問看謹師の小出さんから昨曰連絡があり、江藤キヌさんのもとを訪間することとなった。江藤さんは末期がん。小出さんの「できるだけ早く」という口調からも、あまり時間かないことは感じられた。江藤さんのもとを訪間したのは、もともと入っていたアポイントの後。すっかり辺りは暗くなっていた。
江藤さんのお宅は木造平屋。少し建てつけの悪い引き戸を開け、「こんばんは」と声をかけると、娘の明子さんが出てきた。
「歯医者ですが、申し訳ありません」というと、「無理を申し上げまして」と深々と頭を下げられた。僕は「大丈夫ですよ。ご心配なく」とだけ答えた。
キヌさんの部屋に通されると少しくらい蛍光灯。部屋の温度が低いわけではないけど、背中のあたりにスーッとする冷気を感じる。そして、青白い顔で真上を向き、目を閉じているキヌさん。残されている時間がいくらもないことはすぐわかった。背後から昭子さんが寄ってきて、
「これが母の使っていた入れ歯なんですが、入れることはできませんか?入院する前からなので、1年以上は使っていないんですけど」
と申し訳なさそうに僕に渡した。決して大きくはない義歯だけど、あまりにもキヌさんの口が小さくなりすぎている。一応、口の前に義歯を近づけたけど全く入る気配すらしない。そこで、義歯を置いてまずキヌさんの顔のマッサージからはじめることにした。
ベッドの頭の部分に入ると上から頬、首、肩のマッサージを試してみる。途中で絹さんが「ウッ」という小さな声を上げたが、目を開けることはなかった。昭子さんはほぼ直立不動でこちらの様子を見ている。再び義歯を入れようと試みるが、どうしても入らない。明子さんは無表情のままこちらを見ている。
今度は、訪問用のマイクロモーターを取り出し、上下義歯の臼歯部辺縁を削合していく。静寂な空間に僕の手作業する音だけが聞こえる。熱くもないのに額に汗もにじんでくる。そして再びキヌさんの口元に入れ歯を装着しようとする。力を入れて唇を引っ張るキヌさんが眉間にしわを寄せた。「ハッ」と思い明子さんを見ると、同じように眉間にしわ。しかし、あと少し。
僕は、持っていた診療用セットから充填器を取り出し、球状になった部分で唇を引っ張り、上の義歯を入れる。すると意外と容易に口腔内に装着できた。もっと難しいと思われた下の義歯も同じ方法で装着できた。両方の義歯が口腔内に入った途端、安堵で僕のほうが「フゥ~ッ」とため息。キヌさんの眉間のしわも消えたように感じた。ちょっと落ち着いて振り返ると、深々と頭を下げている明子さんがいた。
翌日、診療室に小出さんから電話があった。
「先生、本当にありがとうございました。江藤さんは昨晩亡くなられました…。でもね、先生…。明子さん、私たちにあまり話をしてくださらない方なんだけど、今朝ね…。『母の顔で送ることができます』と言って涙を流して感謝されたのよ。ありがとう、先生…」
小出さんの涙声を聞きながら視界がにごった。