風のいざない  第16話 「予感」     五島朋幸(新宿区)

境千恵子さん82歳はパーキンソン病で寝たきり。ひとり暮らしではあるが、5年ほど前からベッドから動けない状態が続いている。わずかに動く手足を利用しながらテレビを見たり、電気をつけたり。たまに娘さんが様子を見に来られるが、基本的には訪問看護師さんやヘルパーさんの手を借りて生活をしている。寝たきりになった直後から口腔ケアの依頼があり、月に2回訪問している。

呼び鈴を鳴らすとドアを開け、

「こんにちは、歯医者です」

と室内に向かって声をかける。いつものように小さな声で「は~い」という境さんの声がする。玄関に入るとキッチンの向こうの部屋に電動ベッド。ギャッジアップしている境さんと目が合う。また小さい声で「どうぞ~」。

境さんは臼歯部にいくつかブリッジがあるものの、多くの歯が残っていた。しかし、体調の変化とともに歯冠が折れていき、今では数本の歯冠を残すのみで、多くが残根になってしまっている。とはいえ、開口もままならないので義歯を装着することもできず、そのままになっている。

「境さん、こんにちは。調子はいかがですか」

「先生ね、パーキンソン病ってだめねえ…。体がぜんぜん動かなくなったのぉ…」

とゆっくりゆっくり言葉を吐き出される。いつもの言葉ではあるが僕から返す言葉もない。

「先生ね、頼みたいんだけど…」

「何ですか」

「体が下にずり落ちちゃって痛いの。直してくれる?」

僕は境さんの頭の方へ行き、両脇を抱えるようにしてゆっくりとベッドの上方へ引き上げた。それから枕の位置を直し、布団を胸元までかけて整えた。

「大丈夫ですか。痛くないですか」

「うん、ありがとう。悪いねぇ…。先生にこんなことさせちゃって。こんなことさせる患者なんていないでしょ」

「何言ってるんですか境さん。こんなのお安い御用ですよ!」

僕はいつものように口腔ケアの準備をする。洗面所にある歯ブラシ、歯間ブラシ、コップ、タオル、そして洗面器を持ってベッドサイドに戻る。少しギャッジアップしてタオルを胸元に置き、歯ブラシでブラッシング。境さんは目を閉じている。一通り終わったところでさらにギャッジアップ。口元にコップを近づけ、ゆっくりゆっくり口の中に水を注ぎ込む。今度は洗面器を首元に近づけると、境さんがゆっくり水を吐き出す。

「境さん、今日のホームヘルパーさんは歯ブラシうまい人だったでしょう。かなりきれいになっていましたよ」

「そう。分かる?今日の人はベテランですごくうまいのよ」

今度は歯間ブラシをかけ、再びうがいをしてもらう。最後は胸元のタオルでお口の周りを拭き、ブラシ類を洗面所に戻して終了。これまで百回近くやってきた口腔ケアだ。

「また2週間後に来ますね。次回は…」

といってアポイントをとる。荷物をまとめると境さんの肩に手を当て、

「どうもお疲れさまでした。また来ますからね」

とご挨拶をして帰ろうとすると、

「先生…、ありがとう…。これまで…」

いつもとは違う言葉にドキッとはしたが、そんなに気にすることなく家を後にした。

1週間後、訪問看護師から連絡が入った。境さんが天寿を全うされたと。