風のいざない

風のいざない 第27話/最終章 「使命」      五島朋幸(新宿区)

西条孝子さんは93歳。誤嚥性肺炎を発症し、入退院を繰り返している。病院の医師は胃ろうにしろと迫ったが、家族は悩んで在宅の主治医に相談した。その在宅主治医から僕も相談を受け、ご家族や本人が望んでいないのなら、もう1度在宅に戻ってもらい、肺炎予防のケアをしてみようということになった。

西条さんの退院時カンファレンスには、在宅主治医、訪問看護師、ケアマネージャー、そして歯科医師、歯科衛生土、管理栄養土と顔をそろえた。病院の医師からは淡々と病状の説明があり、「これで胃ろうにはしないって、家族が言うんだから、こっちには責任がない」と言わんばかりの態度だった。僕のほうからも嚥下機能についての質問をしたが、「内視鏡検査をした耳鼻科も食べるのは無理だって言っています」とバッサリ。まだ西条さんにお会いしていないが、状況は極めて厳しい。カンファレンスルームを出た在宅スタッフは、一様に暗い顔をしていた。

病室に移動し、顔合わせ。僕の方としては、挨拶だけして終わるつもりだった。在宅主治医の話が終わると、僕が西条さんのベッドサイドに。マスクをしているが、意外にも眼の輝きはあり、こちらをしつかり見ておられる。

「はじめまして。歯医者です。西条さん、ロから食べられるといいですねぇ。がんばりましょう。西条さんは何が食べたいですか」

とたずねると、大きく、しっかりした声で、

「アンパン!」

これにはベッドを囲んでいた在宅スタッフからも笑顔がもれた。

「じゃあ西条さん、アンパンが食べられるようになりましょうね。ちょっとお口を見せてください」

と言い、マスクをはずして、懐中電灯で口の中を観察。驚くなかれ、ブリッジが3カ所に入っているが、歯列はそろっている。しかも、カラッカラに干からびた口の中は茶色い膜が全体に張った状態。ギョッとして病棟看護師に、「口腔ケアはやってるんですか!誤嚥性肺炎の予防は口腔ケアですよね。なんで、こんな状態にするんですか」

と興奮して声をかけた。

「ごめんなさい…。嚥下できないから水を使うなって言われているものですから」

ひとりの看護師を責めても仕方ないことだし、とにかくこんな状態にはしておけない。歯科衛生土もいたが、自ら歯ブラシを持ち、口腔ケアをすることに。最初は指で保湿剤を全体に塗布し、今度はブラシに保湿剤を付けてゆっくりブラッシング。膜になったものが大量に取れてくる。ある程度取れたところで残った歯をブラッシング。

これまでブラッシングのされていない歯肉からは出血があったが、丁寧にブラッシングを繰り返す。10分ほどかけて口腔ケアを終了すると、ピンク色の歯肉が現れた。大人げない行為だとは分かっていたが、無言で病棟看護師をにらみつけた。彼女はうつむいていた。

一転満面の笑みで西条さんに、

「退院したら絶対に口から食べるようになりましょうね。アンパンは僕がおごるから!」

西条さんは笑顔でこっちを見てくれた。

病院からの帰り、歯科衛生士と一緒だったが、あまり会話は弾まなかった。口腔ケアが広まっているなんて、ただの幻想。これが現実というものを突きつけられた気がした。高齢社会において歯科の果たす役割は大きい。義歯にしろ口腔ケアにしろ嚥下障害にしろ。まだまだこれから。

風のいざない  第26話 「笑顔」      五島朋幸(新宿区)

高崎幸一さんには脳梗塞の既往がある。80歳を超えた頃から数回、誤嚥性肺炎で入院もしている。前回入院した際、病院で嚥下機能回復訓練を受けたにもかかわらず、肺炎を発症してしまい、医師からは口から食べるごとは不可能といわれてしまった。しかし、幸一さんの食べたいという気持ちが強く、奥さまの秀子さんが在宅主治医に相談し、僕の所へ依頼がきた。とはいえ、訪問看證師も経口摂取に対しては消極的で、かなりの制約付きである。こういう時は歯科衛生士の原田さんと訪問栄養指導をしてくれる管理栄蓑士さんの水沼さんの出番だ。

初回から原田さん、水沼さんと3人での訪問。今回に限っては目標設定がとても難しい。病院での訓練でも、食べられるようにならなかった高崎さんである。不用意に食べられることを確約してしでうと、本人の期待ばかり先行し、将来大きな失望につながりかねない。

高崎さんのマンションで出迎えてくれたのは、奥さまの秀子さん。

「このたびは本当にありがとうございます。よろしくお願いいたします」

と丁寧なあいさつ。僕たちは奥の部屋に通された。幸一さんは電動ベッドの脇に腰掛けていた。

「ごんにちは。よろしくお願いいたします」

と抜拶すると、深々と頭を下げられた。

さっそく僕は歯のチュック。何と、ブリッジが2カ所ある以外は、しっかりとした白分の歯であった。喉の状態、首、肩の柔軟性を確認ずると、水沼さんに「お願い」と声をかける。水沼さんは用意していた嚥下用のゼリーを取り出し、小さいティースプーンで1杯すくい、

「高崎さん、これからお口の中に入れますので、しっかりゴクッと飲み込んてください」

と声をかけた。幸一さんの目は輝く。秀子さんは不安そう。僕は両者を冷静に見ながら無言でいた。

水沼さんのスプーンが口の中に入ると、幸一さんは口を閉じる。スプーンが抜かれるとみんなの目が幸一さんの口元に集中する。秀子さんなどは何か言おうとして固まった姿のまま固唾を飲んでいる。頬、唇、そして顎。微妙な動きに視線が集まる。3秒、5秒、10秒。その時、喉仏がグーと引きあがり「ゴクン」と音がした。幸一さんが顔をあげ、水沼さんの方を向き

「飲み込めました」

とひと言。秀子さんは魔術が解けたかのように、ホッとした顔に変わる。しかし、僕も水沼さんも原田さんも、表情を変えていない、10秒、20秒、30秒。幸一さんに目立った変化はない。そごで僕が、

「大丈夫でしたか」

と笑顔でたずねると、幸一さんがニコッと笑った。それを見てようやくみんなが笑顔になった。

「奥さん、本当に少しずつですけれども、食べる訓練をしていきましょう。成功の階段は小さいけれど、積み重ねていけば必ず良い緒果が付いてきまず。でも、うまくいかないこともあると思います。僕たちのほうでコントロールしますから、失敗しないよう頑張りましょう」

と伝えた。

そこへ元気な男の子の声。

「ただいま!」

同居してる小学校1年生の幸彦君。「おばあちゃん、お客さん?」

「そうよ。おじいちゃんが食べて元気になるようにしてくれる先生よ」

「こんにちは!  僕、おじいちゃんとファミレスに行く約束してるの。僕はハンハーグ。早く治してね!」

みんながいい笑顔になった。ずごくいい仕事をしている気がした。

風のいざない 第25話 「 金の卵」      五島朋幸(新宿区)

ある日、歯科訪問診療を見学したいという若い歯科医師からメールがあった。日程を調整して一緒に訪問することになった。

当日の朝現われたのは、いかにも現代風のイケメン。3年目の歯科医師の横田和也先生。はつらつとした好青年で、まさに笑顔がまぶしい。

「どうして訪問診療に興味持ったの?」

とたずねると、きりっとした顔になり、

「高齢社会の中で必要なことだと思うんです。歯科医師として重要な仕事だと思っています」

とても優等生的な答え。就職面接調であるが悪い気はしない。

「もっと肩の力抜いていいよ」

と笑いながら横田君の肩をもんだ。

準備を終えて一緒に訪問に出かける。1軒目はひとり暮らしの長田クラさん。いつものようにベルを鳴らし部屋に入ると第一声。

「おや、先生、イイ男連れてるじゃないの。10歳若返るわ!」

「長田さん、2人いるんだから20歳若返るとか言ってみたら」

「先生の5歳はすでに引いてあるから大丈夫よ」

「えぇ~、僕のは5歳なの~っ!」

一同大笑い。義歯の調整も順調に進み、1カ月後の約束をとって長田さんのうちを後にした。

次の訪問は大津ウメさん。娘のユキ子さんとのふたり暮らし。玄関先で娘さんに横田君を紹介し、奥の部屋に入って行った。電動ベッドに横たわるウメさんは、多発性の脳梗塞で手足は動かず、意識も清明ではない。いつものように口は半開き、目は薄目のようでもあるが閉じているようでもある。いびつに握りしめた手を軽く手で包みこみ、

「大津さん、これからお口の中きれいにしますね」

もちろん反応は何もないが、僕はいつものように口腔ケアの準備を進める。頬、首、をゆっくりマッサージし、保湿剤をつけた粘膜用ブラシでケアを始める。ユキ子さんが、

「最近、口を開けてもらえないこともあるのでなかなかねぇ」

「いやいや、十分ですよ。これだけきれいにされていれば十分ですよ」

「そうねぇ、先生が来てくれるようになって、熱が出ることがなくなったものねぇ。ありがたいわぁ」

とユキ子さんは横田君をちらっと見た。僕は予想以上に後ろにいた横田君にちょっと驚いた。しっかりとブラッシングをして最後に保湿剤を塗布して終了。

「先生が定期的に来ていただけるだけで本当に安心だわ」

「僕はお母さまのところへ遊びに来ているだけですよ!」

帰り際、ユキ子さんが横田君に何か声をかけたようだったが、僕は先に玄関を出た。

外に出てきた横田君はなぜか下向き加減。

「どうした?」

「…なんかぁ。なんか思っていたものと違うんです。」

何か幻滅したかと思い、ちょっと不安になる。横田君は下を向いて必死に言葉を探している。

「寝たきりの人の歯を治すことだと思ってたんですけど、すごく違うのでびっくりしたんです」

それから僕の方を向いて一言。

「すっげぇ、はまりそうです!」

あまりに吹っ切れた言葉に大笑い。

「ちなみに大津さんになんて言われたの」

横田君は甘いマスクを崩しながら、

「がんばれ、金の卵!」

風のいざない 第24話 「立つ鳥跡を濁さず」      五島朋幸(新宿区)

秋田さださんは92歳。10年以上前から近所のデイサービスセンターに通っており、認知症はあるものの人気者のおばあちゃん。何でもはっきりものを言うので、最初は利用者仲間からも、職員からも少し敬遠されていたが、その裏表のない性格が皆に分かると一気にスターヘ。

僕が訪問したのはちょうど1年前。入れ歯が浮き上がり食べづらそうだと、一緒に暮らしている息子の義明さんから依頼があった。最初の訪間の時、さださんの第一声は、

「なんだぁ、おめぇ。何するんだよ」

なかなかの先制パンチにちょっとたじろぐと、義明さんが

「今日は元気だね」

それでも診療に関しては協力的で、大きな間題はなかった。ただ、5分に1度は、

「なんだぁ、おめぇ。何するんだ!」

入れ歯の調整白体は数回で終了し、栄蓑状態のチェックや入れ歯の確認に3カ月に1度訪間するようになった。そんなある日、義明さんから連絡が入った。入れ歯が少し欠けてしまったということと、今度、郊外の老人ホームヘ入居が決まったということ。

最後の訪間日、いつものようにドアベルを鳴らすと、すぐにドアが開き義明さんが出てきた。決して大きな玄関ではないが、多くの靴が置いてあり、僕の靴を置く隙間もない。中に入ると人がいっぱい。

義明さんが‘

「姉夫婦と妹です」

と紹介してくれた。4畳半ほどの部屋にテーブル、さださん、義明さん、そしてゲストの3人、さらに僕。まさにすし詰め状態。僕はさださんの隣の席に座ったが、皆さんは立ち見。

「秋田さん、入れ歯はどうでしたか?」とたずねると、「なんだぁ、おめぇ」なんていつもの言葉はなく、やさしい目で

「遠いところ、よう来たねぇ」

そのひと言だけて、不覚にも目頭が熱くなってしまった。さださんの後ろに立っていた義明さんが下の総入れ歯を外し、「ここなんです」と欠けてしまった部分を見せてくれた。そこは以訓補修したプラスチックの場所で、2ミリほど段差ができてしまい、とがっていた。さっそく段差をなくすように削り、全体を磨く作業に入った。立ち見からの視線は痛いが、決して難しい作業ではないのでスムースに進む。途中、さださんが

「悪いねえ、こんな遠くまで来てもらって。寒くねぇか」

などと気遣ってくださる。

「秋田さん、ありがとうございます。でも秋田さんらしくないなぁ」

「なんだぁ、おめぇ」

「そうそう、秋田さんはそうでなくっちゃ!」

と言うと、義明さんも皆さんも大爆笑。

「さ、秋田さん、できましたよ。この入れ歯は、またまだ使えますからね。しっかり食べて元気でいてくださいね」

と言って、お口に戻した。義明さんが、

「先生、長い間ありがとうございました。母がこんなに元気になったのは先生のおかげてず。最初に来ていただいた時は、どんどん痩せていった時期でしたから」

「いえいえ、お母様のポテンシャルが高かったんですよ。また、何かできるごとがあったらお声がけください」

と言って荷物をまとめ、秋田さんに最後のご挨拶。

「秋田さん、お元気でいてくださいね」と言って右手をとり握手。すると秋田さんが、とびきりやさしい顔で、

「ありがとう、感謝しとるよ」

外に出た時、一瞬、風が吹いた。別れはいつも寂しい。

風のいざない 第23話  「魔法」     五島朋幸(新宿区)

石川和子さんは有料老人ホームに入居している。ひとり息子の靖男さんは地方に住んでおり、ご主人を亡くされた和子さんはひとりになってしまい、老人ホームに入居された。先日入院された時、靖男さんも上京され、担当医から胃ろうにしたほうが良いと言われてしまい、何とか口から食べてほしいという気持ちから僕たちの元へ依頼があった。

立派な建物の老人ホームに入るとエントランス脇にカウンターがあり、女性の案内係がいた。石川さんのお名前を出すと2階に上がるよう指示された。エレベーターのほうに向かうと、案内から2階の方へ連絡をしているようだった。

エレベーターのドアが開くと、そこには若い男性と少し年配の女性が待っていてくれた。女性の方から、

「歯医者さんですか。看護師の山本です。こちら居室担当の野田です」

僕のほうもよろしくお願いしますと頭を下げた。さっそく山本さんが、「こちらです」と言って部屋まで案内してくれた。

お部屋は6畳ほどの部屋に電動ベッド、机、棚が入っており、棚の上には大きな薄型テレビが置いてあった。和子さんは車いすに座っており、ベッドに靖男さんが腰かけていた。僕はまず和子さんに挨拶をしたが、下を向いたまま反応はなかった。改めて靖男さんにも挨拶をした。

「母はまあこんな調子なんですけどねぇ、認知症だなんて。ただ、食べられることは食べられるんですよ。なんか方法はないでしょうか」

母親思いの靖男さんの優しさを感じる話しっぷりだった。さっそく、お口の中を拝見することにした。

上顎の前歯部に3本、下顎は両側の犬歯が残っており、上下とも部分入れ歯が装着してあった。ただ、食べかすも残り、衛生的とはいえない。さっそく、上下の部分入れ歯を外すと野田君が「おっ」と声を発し、山本さんと顔を見合わせていた。僕はその様子を少し気にしながらも入れ歯を洗面台に置き、残った歯の観察。多少揺れている歯もあるけれど、今、何かをする必要はなさそうだ。まずは口腔ケアをということで、和子さんの歯ブラシを借りてブラッシング。いたって普通だったのでブラッシングをしていたが、冷静な顔の靖男さんとは対照的な山本さんと野田君の普通でない表情。「うん?」と僕が野田君のほうを見ると、

「先生、石川さんはいつも口をつぐんじゃって、まったく口腔ケアできないんですよ。入れ歯だってほとんど外せないくらいなんですから…」

「えっ、そうなの?」

僕は改めて和子さんの顔を見るが、どこ吹く風。靖男さんはちょっと複雑な表情。

口腔内を清潔にし、きれいに洗った入れ歯を装着し、今度はフードテスト。僕が持参したゼリーをティースプーンですくい、ゆっくり口元に持っていくと、唇をすぼませ、すでに臨戦態勢。口は開けて欲しかったが、口の中にゼリーを入れるとすぐにモグモグモグモグ、そしてゴックン。野田君は若者らしく、「はやっ!」とひと言。僕はもうひと口スプーンで持っていくと同じように唇をすぼませ、ゼリーを含むとモグモグゴックン。

靖男さんが身を乗り出して、「どうですか」と言って僕を見る。

「よく調べてみないとわかりませんが、今の状況だけみると嚥下機能は高く維持されていますし、食べ物の形態などを考えれば、口から食べられると思いますよ」

野田君が、

「先生、石川さんがこんなにしっかり飲み込むのを見たことないですよ。何したんですか?魔法でもかけたんですか」

僕は笑いながら

「石川さんは、だれが歯医者か、よく分かってらっしゃるということだよ」

靖男さんも笑顔になった。

風のいざない 第22話  「ラブレター」     五島朋幸(新宿区)

青木次子さんは98歳。娘の智子さんとふたり暮らし。訪問するといつも笑顔で、

「先生、待ってたわよ。先生は若くて背が高くてハンサムねぇ。先生の顔みると痛いのなんか忘れちゃう」

これで娘さんと大爆笑の診療スタート。ある時、入れ歯を入れていると、下の歯茎が痛いということで連絡が入った。さっそく訪問してみると、いつも通りのフレーズ。智子さんはちょっと困った顔をして、

「お母さん、痛いと言ってたじゃないの。忙しい先生に来てもらったのに!」

「私は痛いなんて言ってないよ。ねぇ、先生」

「えぇ!うそ!痛いって言ってたじゃない!」

「そんなこと言ってないもん!」

駄々っ子のような返答に一同大笑い。

青木さんの診療が終わり、訪問診療を休止して半年ほどたった頃、智子さんから連絡が入った。またどこか調子が悪いところが出たのかなと思い、次子さんの笑顔を思いながら気軽に受話器をとった。するといつになく暗い声の智子さん。

「先生、本当にお世話になりました。実は母は先月、心臓まひで亡くなりました。本当にあっという間の出来事だったんです。でも苦しまず、笑いながら逝きました」

心の準備もなく、僕は相槌すら打てなかった。智子さんは、

「先生もお忙しいと思いますが、お時間あるときにもう1度、家に来てくださいませんか」

と言われたので「ぜひ、うかがいます」とだけ伝えた。

翌日の訪問診療前に、青木さんのお宅をお邪魔した。いつもの笑顔が待っていないというだけで寂しくなってきた。ドアベルを鳴らすと智子さんが出てこられ、

「お呼び立てして申し訳ありませんでしたねぇ」

と言って中に通された。いつも次子さんが座っておられた部屋には仏壇が入り、お花がいっぱい添えてあった。中央には笑顔の、いや、大爆笑中の次子さんの写真。僕の顔は自然と笑顔になっていくのに、涙が少しこみ上げてきてしまった。手を合わせると智子さんが、

「数えで99歳、母は天寿を全うしました。本当に見習いたい死に方でした」

大きくうなずいた。ただ、声を出すと涙声になってしまうのではないかと思い、声は出さなかった。

「先生、実は見てもらいたいものがあるんです」

と言うと、智子さんは隣の部屋に行ってしまった。その時の顔がちょっといたずらっぽい顔だったのは気のせいか、と思った。

戻ってきた智子さんが持っていたのは大きめの半紙。

「これ、母が亡くなった後、デイサービスの人が持って来てくれたんですよ」

と言うと、その半紙を開いて僕に見せてくれた。そこには決して上手とは言えないが、黒々とした墨でこう書いてあった。

「大好きな歯医者さん。若くて背が高くてハンサムボーイ 次子」

ふたりで大爆笑。でも、あふれ出る涙を止める方法はなかった。

風のいざない  第21話 「お父さんの介護」     五島朋幸(新宿区)

細田照子さんは脳梗塞を繰り返し、寝たきりになって約2年。ケアマネジャーの堀川さんから、口腔ケアと飲み込みの状態を診てほしいと依頼があった。初診時、歯科衛生士の原田さんと一緒に訪問することにした。

細田さんはご主人の文明さんとふたり暮らし。僕たちを迎えてくれた文明さんは、ちょっと頑固そうな顔付きであったけど、優しく僕たちを照子さんのところへ案内してくれた。

「こんにちは、細田さん。歯医者です」

と声をかけると、照子さんは眼をぱっちりと開いてウンウンとうなずいておられる。声は出ないが、表情も豊かで僕たちを歓迎していただいているようだった。口腔内を見ると、歯が10本ほど残っており、上下とも部分入れ歯が入っている。すごく不潔ということではないが、磨き残しも結構ある。次に、文明さんに普段の食事介助の様子を見せていただく。電動ベッドをギャッジアップし、市販の嚥下食をスプーンでどんどん口の中に入れ込んでいく。照子さんはだんだん口がいっぱいになり、最後は口を動かすのをやめた。文明さんがティッシュを口元にやると、照子さんは口の中に残っていたものを吐き出した。原田さんと目を合わせたが、言葉を交わすまでもなく、問題点は山積。

「細田さん、いくつか修正できる点があると思いますよ。歯が残っていて部分的な入れ歯を入れている方は、口のケアをするのがとても難しいんです。いつも歯ブラシしていただいてると思うのですが、プロの歯科衛生士にも来てもらって、仕上げ磨きをするようにしましょう。食べる時は、ひと口ひと口、しっかり飲み込んでから次のひと口を食べてもらうようにしましょうね。歯科衛生士も飲み込むための訓練ができますから、お口のケアと一緒にやっていきましょう」

文明さんは「なるほど~」という表情で僕の説明を聞いてくれた。

翌週から訪問してくれた原田さんから意外な報告が入った。

「ご主人は自分のやり方が正しいと思っていて、全然いうこと聞いてくれないんですよ」

そして翌週には

「口のケアは俺がやってるから歯科衛生士は来なくていいっていわれました」

ケアマネジャーの堀川さんにその件を伝えると

「そうですかぁ。ご主人そういうところあるんですよ…」

本当は1ヵ月後に訪問予定だったのを早め、翌週訪問することに。僕の訪問の意味を文明さんは十分に分かっているようだった。顔を見ても笑顔はなく、「どうぞ」とだけ言って後ろを向いてしまった。こちらは何事もなかったかように、

「こんにちは、細田さん。歯医者です。覚えてますか」

というとにっこりと笑顔になった。隣のリビングに座っていた文明さんのところへ行き、「どうですか」と声をかけてみる。

「僕はね、ちゃんとやってるんだよ」

と吐き出すように言い、1冊のノートを僕に見せた。そこには小さな字でぎっしりと今までの介護記録が書き込んであった。

「細田さん、僕たちは細田さんがすごく熱心に介護されていることを知っていますよ。だから、ご主人が少しでも楽になればと思っているだけですよ」

文明さんが少し顔を上げた。

「まずは僕が、1カ月に1度、様子を見に来るようにしましょうか。その代わり、最初は1つだけ。ひとくちお口に入れたら、しっかり飲み込むまで次を入れない。それだけでどうですか」

文明さんは少し面白くなさそうな表情は残しながら

「それからやろうか」

と言うと、口元に少しだけ笑顔が戻った。

風のいざない 第20話 「歓声」     五島朋幸(新宿区)

訪問看護師の秋元さんから診療室に電話が入った。胃ろうを入れている女性だけれど、ご主人がとても熱心な方で、何とか口から食べさせたいとのこと。「先生しか頼む人いないんだから」とのひと言に安請け合いをしてしまった気もする。

まずは状況確認のために、僕ひとりで訪問することになった。三田梅子さんは何度か脳梗塞を繰り返し、両手はグーを握ったまま抱え込んだ形になっており、ベッド上で左を向いたままになっている。ご主人の春雄さんは白髪だけど、きれいに七三に分け、とてもキッチリされている。部屋も整理整頓されており、そのお人柄がうかがわれた。

「先生、どなたに相談しても、口からは食べられないって言われるんです。でもね、やっぱり少しでも口から食べてもらいたいんです。この人は食べた後、良い顔してたんですよ。もちろん多く食べてもらおうなんてことではないんですよ、ひと口でもいいんです…。ダメでしょうか」。

冷静で情熱的な言葉に、こちらもスイッチが入る。肩、首、頬を触り、ちょっと梅子さんの顔を覗き込んだ瞬間、ドキッ!とした。目が生きている。梅子さんは僕をしっかり見ているのだ。声も出ない、体も動かない状況の中で、しっかりと僕を見ているのだ。実は別の言葉を用意していたが、梅子さんの目にかけてみようと思った。

「ご主人、食べてもらいましょうよ。奥様に食べてもらいましょうよ。口から」

春雄さんは声も出さずに頭を下げた。

2回目の訪問ではいくつかの作戦を考え、歯科衛生士の原田さんと訪問した。梅子さんは自分の歯が多く残っているのだが、なかなか口をあけてもらえない。どうにかして口の中を刺激し、嚥下反射が起きれば、次への突破口となるはず。

梅子さんのベッドサイドに行くと挨拶をし、原田さんに口腔ケアをしてもらう。その様子を観察していたが、どうも先日のようなしっかりとした目ではない。春雄さんも何か気付いたのか、少し不安そうな面持ち。原田さんのケアが終わったところで、嚥下開始用のゼリーをスプーンにとり、口のほうへ近づけるが口は全く開かない。僕も耳元で声をかけたり、春雄さんが足を軽くたたきながら「おい、口を開けなさいよ」などと声掛けしてくださるも、反応はない。皮肉にもスプーンを置いてどうしようかと思ったときに大あくび。一同落胆。何とか口の中に入ってほしい。

次の作戦は、大きめのシリンジの先にゴムチューブを取り付け、補水液のゼリー状になったものを挿入していくというもの。偶然、梅子さんの右上の奥歯が2本欠損しており、ゴムチューブがそこから入るのだ。その隙間からチューブを押し入れ、左手でチューブを固定し、右手でゆっくり押し出してみる。3ミリリットル。チューブを引き抜く。1秒、2秒、3秒。反応がない。吸引しようかと思った瞬間、ゆっくりと口がもぐもぐし始めた。みんなが息を止める。その瞬間、大きな音でゴクリッ!3人タイミングを計ったように

「お~っ!」

と歓声が起きる。春雄さんが、

「先生、今のは飲めたんですよね。飲んだんですよね」

僕は大きくうなずいた。春雄さんも大きくうなずいた。少しだけ涙を浮かべて。

梅子さんは…どこ吹く風。少し自慢げに見えた。

風のいざない 第19話 「 入れ歯をつかう体」      五島朋幸(新宿区)

紹介をしてくれたのはケアマネジャーだった。腎臓の病気で入院していて退院してきたが、痩せてしまったせいか、入れ歯が合わなくなっているのでみてほしいという依頼だった。

夏のある日、吉田一郎さんのところへ初めて訪問した。呼び鈴を押して出てこられたのは奥さまのヨシ子さん。小柄で品のある方だった。

「このたびは無理をいいまして申しわけありません」

と丁寧なご挨拶。さっそく通された部屋の電動ベッド上に一郎さんは寝ていた。顔色はお世辞にも良いとはいえないが、骨太でがっちりとした体形で、ヨシ子さんとは対照的だった。

「こんにちは、歯医者です。吉田さん、調子はいかがですか」

「えぇ、まあまあです」

とはいうものの、声は小さくしわがれていた。ベッドサイドには総入れ歯が上下で置かれていた。こちらも準備を整え、さっそく現状の義歯を口の中に入れてみた。顎の土手は太くてしっかりとしているのだが、上下とも吸着感はどこにもない。

「吉田さん、お痩せになったんですねぇ。入れ歯のほうを直していきますからね」

といって上下リベースを行った。この顎の土手をもってすれば、かなりしっかりするだろうと楽観していたのだが、リベース後の吸着感もいまひとつ。ちょっと落胆しながらまずは使用してもらうようお願いをした。

次に訪問した時、玄関先でヨシ子さんに

「どうですか、入れ歯のほう」

とたずねてみるが、

「えぇ、まぁ、そうですねぇ」

とうかない返事。一郎さんのところへ行き、同じように聞いてみても

「そうですねぇ」

と小さな声。とはいえ、義歯のチェックをしても決して悪いところはない。ただ、吸着がなく、安定感がない。ためしに、上下の入れ歯を入れた状態で、僕の両手の人差し指を臼歯部に入れ、思いっきり噛んでもらった…。予想通り。痛みすら感じない。そこでご夫婦に、

「入れ歯っていうのはただの道具ではないので、使いこなすだけの機能がないとだめなんです。吉田さんは入院中から入れ歯を外していたので、入れ歯を使いこなす機能が落ちてきているようです。歯科衛生士さんにお願いして、お口のリハビリもやっていきましょう。それに合わせて僕も入れ歯の調整をしていきます」

と伝えた。僕はその場で歯科衛生士の原田さんに電話をして吉田さんのアポイントを取ってもらった。

2ヵ月後のある日、久々に吉田さんのお宅を訪問した。呼び鈴を鳴らすとヨシ子さんが満面の笑みで出てこられた。

「ご無沙汰しております。吉田さん、いかがですか?」

するとヨシ子さんがいたずらっぽい顔をして

「とにかく見てくださいよ」

部屋に行くと、とにかく顔色が良く、満面の笑みをした一郎さんがVサイン。

「すごいじゃないですか、どうしたんですか」

と聞くと、ふたりとも話したがった空気をヨシ子さんが制し、

「原田さんが良くしてくれてねぇ。とにかく食べられるようになったんですよ。食べられるようになったら入れ歯も安定してねぇ。今では何でも食べられるんですよ」

すげぇ~と思っている僕がしゃべる前に再びヨシ子さん。

「入れ歯って、形だけ良くすれば使えるんだと思ってましたけど違うんですねぇ。使える体があって、初めてうまく使えるんですねぇ」

それ以上、僕がいう言葉はなかった。

風のいざない 第18話 「ピンチを救う人」     五島朋幸(新宿区)

久田一男さん82歳は8年前からパーキンソン病で寝たきりである。奥さんは早くに亡くなられているので、ひとり息子の友一さんが介護をしている。とはいえ、友一さんも仕事があるため、日中はヘルパーさんにより生活が支えられている。僕たちがかかわったのは3年前から。残存する歯が多い一男さんの口腔ケアが目的である。定期的には歯科衛生士の原田さんがケアに入り、僕は3カ月に1度チェックに入り、継続したケアを行っている。

夏のある日、原田さんが慌てたように僕に報告をしてきた。

「先生、久田さん、大変です!最近すごく痩せられたんです。全然食べられてないみたいです。早めに診てください」

進行性の病気とはいえ、前回診察した時はお元気そうだっただけに、少し意外な報告だった。そこで、次回の原田さんの訪問に合わせて、僕も訪問するようアポイントをとった。

久田さんのお宅にうかがうと、いつものように友一さんが仕事を抜け出し、僕たちを笑顔で迎えてくれた。通された部屋には、顔色が悪く、骨格が浮き出た顔になってしまった一男さん。さすがに言葉が出ず、友一さんの顔をうかがうと先ほどの笑顔はまったく残っていなかった。

「友一さん、最近お父様はどれぐらい食べられているんですか?」

「私は昼間いないので分からないのですが、ヘルパーの方はいつものように食べているっていうんですけど…」

原田さんの顔は明らかに「全然ですよ!」と訴えていた。とりあえず、いつも一男さんが食べているという「舌でつぶせるレベル」のサンプル食品を原田さんに用意してもらった。さっそく態勢を固め、一男さんに声掛けして食べていただく。目を開け口を開けてくれたのでティースプーンに軽く食品を盛り口腔内に入れていく。軽くもぐもぐする仕草はあったが、そこで終ってしまった。もちろん、口の中から少しも減っていなかった。あまりの状況に困惑していた時、原田さんが、

「水沼さんにみてもらいましょうか」

水沼さんは僕たちの地区で活躍する管理栄養士で僕たちとも親しい。友一さんに水沼さんの話をして、一緒にみてもらうことにした。

1週間後、水沼さん、原田さん、そして僕の3人で訪問することとなった。水沼さんにはこれまでの経緯などを話しておいた。さっそく、一男さんのベッドサイドに行くと水沼さんは上腕の太さなどを計測し、体重や現在の食事状況などを友一さんに聞いた。

「今の話から考えると、500キロカロリーも摂れてないかもしれませんね。もう少しお口からスムーズに栄養を摂れる方法を考えてみましょう」

そういうと、カバンから哺乳瓶の先にストローが付いたようなボトルを取り出し、サンプルで持ってきた嚥下食を入れた。一男さんのベッドをゆっくり起こし、約45度くらいまで上げ、両脇にバスタオルを押しこみ、体を安定させた。ゆっくりストローを口の中に入れると、ボトルの脇を軽く押した。ストローを通して嚥下食が口の中に入っていく。すると、一男さんが力強く「ゴクッ」。期せずして全員から「おぉ~」と声が漏れた。

「こういう方法でゆっくり食べてもらいましょう。まずは栄養を摂ってもらうところからですね」

一同大きくうなずいた。

風のいざない 第17話  「笑顔が素敵」     五島朋幸(新宿)

訪問看護師の秋田さんから訪問診療の依頼書が送られてきた。きっちりとしたタイプの秋田さんらしく、すべての項目にもれなく、きっちりとした楷書で書かれている。ただ、右下に余白の部分に少女のような字で「先生よろしく」と意味深な言葉が。

紹介された水田ヨシ子さん87歳は、認知症が進行しているとのこと。入れ歯の調子が悪いとのことで依頼を受けたが、認知症と入れ歯の調整。なかなか相反する関係である。水田さんのお宅は都営アパートで、娘さんとふたり暮らし。さっそく呼び鈴を鳴らし、

「こんにちは、訪問歯科です」

と声をかける。すると少し焦った感じで娘の友子さんが出てこられた。こちらはあいさつするが、あまり僕の目を見ることもなく「さっ、どうぞ」と奥の部屋に通された。

電動ベッドで僕たちに背を向けるように横になっている水田さん。軽く肩に手をやり、あいさつをすると、ゆっくりとこちらの方に向き直り、眉間にしわを寄せ、

「なんだ~、この野郎!」

とドスの利いた声。ファーストインプレッションとしては最悪。まあ、何もなかったように、

「水田さん、入れ歯の調子はどうですか?入れ歯の調整をしに来ましたよ」

「なに~?何いってんだよ」

この埒のあかない状況にすまなさそうに友子さんが、

「いつも下の歯を外しちゃうんです。多分、左側だと思うんですけど、いつも触ってるんですよ」

というヒントをくれた。それではと思って

「水田さん、入れ歯を外していただいていいですか?」

と言っても反応はない。やむなく口に手を入れて外そうとすると

「何するんだ、このやろ~っ!」

と言われても、プロの技で上下の総入れ歯をすばやく取り出した。入れ歯を取られた水田さんは、何もなかったようにしょんぼりしている。下の入れ歯は何度か修理を施されており、レジンが段差になったり、一部欠けているようなところもある。

「水田さん、お口の中、拝見しますよ」

と言いながらこちらも身構えたが、何の抵抗もなく、いや、とても素直に口を開けていただいた。懐中電灯をあてて見てみると、左側の舌側に1センチほどの傷があった。

「水田さん、痛かったでしょう。結構大きな傷がありますよ。我慢していたんですね」

「そうなんですか、傷があったんですか」

と友子さん。なにやら期待できそうな展開に、少し笑顔が見える。さっそく傷の部分の調整。再び口腔内に戻してみる。「どうですか」とたずねても口をモグモグ動かすだけで表情に変化はない。

「どうなの、お母さん。痛みはないの?」

するとモグモグしていた口を止め、

「痛くない。痛くないよぉ」

「母さん、良かったじゃない。大丈夫なの」

すると水田さんは僕の方を向き、

「良く出来ました。パチパチパチ。良く出来ました。パチパチパチ。」

友子さんも僕も吹き出してしまった。その雰囲気に水田さん自身にも笑顔が。

「水田さん、笑顔が素敵じゃないですか」

「なに~?何いってんだよ!」

僕たち大爆笑。

風のいざない  第16話 「予感」     五島朋幸(新宿区)

境千恵子さん82歳はパーキンソン病で寝たきり。ひとり暮らしではあるが、5年ほど前からベッドから動けない状態が続いている。わずかに動く手足を利用しながらテレビを見たり、電気をつけたり。たまに娘さんが様子を見に来られるが、基本的には訪問看護師さんやヘルパーさんの手を借りて生活をしている。寝たきりになった直後から口腔ケアの依頼があり、月に2回訪問している。

呼び鈴を鳴らすとドアを開け、

「こんにちは、歯医者です」

と室内に向かって声をかける。いつものように小さな声で「は~い」という境さんの声がする。玄関に入るとキッチンの向こうの部屋に電動ベッド。ギャッジアップしている境さんと目が合う。また小さい声で「どうぞ~」。

境さんは臼歯部にいくつかブリッジがあるものの、多くの歯が残っていた。しかし、体調の変化とともに歯冠が折れていき、今では数本の歯冠を残すのみで、多くが残根になってしまっている。とはいえ、開口もままならないので義歯を装着することもできず、そのままになっている。

「境さん、こんにちは。調子はいかがですか」

「先生ね、パーキンソン病ってだめねえ…。体がぜんぜん動かなくなったのぉ…」

とゆっくりゆっくり言葉を吐き出される。いつもの言葉ではあるが僕から返す言葉もない。

「先生ね、頼みたいんだけど…」

「何ですか」

「体が下にずり落ちちゃって痛いの。直してくれる?」

僕は境さんの頭の方へ行き、両脇を抱えるようにしてゆっくりとベッドの上方へ引き上げた。それから枕の位置を直し、布団を胸元までかけて整えた。

「大丈夫ですか。痛くないですか」

「うん、ありがとう。悪いねぇ…。先生にこんなことさせちゃって。こんなことさせる患者なんていないでしょ」

「何言ってるんですか境さん。こんなのお安い御用ですよ!」

僕はいつものように口腔ケアの準備をする。洗面所にある歯ブラシ、歯間ブラシ、コップ、タオル、そして洗面器を持ってベッドサイドに戻る。少しギャッジアップしてタオルを胸元に置き、歯ブラシでブラッシング。境さんは目を閉じている。一通り終わったところでさらにギャッジアップ。口元にコップを近づけ、ゆっくりゆっくり口の中に水を注ぎ込む。今度は洗面器を首元に近づけると、境さんがゆっくり水を吐き出す。

「境さん、今日のホームヘルパーさんは歯ブラシうまい人だったでしょう。かなりきれいになっていましたよ」

「そう。分かる?今日の人はベテランですごくうまいのよ」

今度は歯間ブラシをかけ、再びうがいをしてもらう。最後は胸元のタオルでお口の周りを拭き、ブラシ類を洗面所に戻して終了。これまで百回近くやってきた口腔ケアだ。

「また2週間後に来ますね。次回は…」

といってアポイントをとる。荷物をまとめると境さんの肩に手を当て、

「どうもお疲れさまでした。また来ますからね」

とご挨拶をして帰ろうとすると、

「先生…、ありがとう…。これまで…」

いつもとは違う言葉にドキッとはしたが、そんなに気にすることなく家を後にした。

1週間後、訪問看護師から連絡が入った。境さんが天寿を全うされたと。

風のいざない 第15話  「手品師」      五島朋幸(新宿区)

尾崎コウさんはご主人の豊太郎さんとのふたり暮らし。コウさんは認知症で、上下の総義歯を時々大事にしまいこんでしまう。そのたびに豊太郎さんが捜索隊となって発見してきたのだが、今回ばかりは見つからない。自宅にいるか、デイサービスに行くかのシンプルな行動範囲の中ではあるが、残念ながら見つからず新たに作ることになってしまった。

初診の日、尾崎さん宅を訪問すると、小柄で少し腰の曲がった豊太郎さんがドアを開けてくれた。「どうぞ、どうぞ」

と、とても人のよさそうな笑顔で僕をリビングに案内してくれた。小さなコタツにはちょこんと座るコウさん。豊太郎さんよりもさらに小柄な体で、背を丸くして小さくなっている。

「おい、お前、歯医者さんが来てくれたぞ」

という声に、僕を不思議そうな目をして見る。少なくとも歓待されている雰囲気はない。

「こんにちは、尾崎さん。歯医者です」

とご挨拶。

「おい、歯医者さんが来てくれたんだぞ。お前が入れ歯をなくしちゃったから」

すると表情が曇り、不機嫌そうな表情へと変わった。

豊太郎さんには義歯は製作していくけれども、認知症の方では噛み合わせを記録することが難しく、調整も難しいので、少し時間がかかるかもしれないことを伝え、了承してもらった。

さて、義歯装着の日。いつものように豊太郎さんに先導されてコウさんのところへ。

「尾崎さん、できましたよ。新しい義歯持ってきました」

と声をかけるが、コウさんはポケッとした顔。変わりに豊太郎さんが興味津々な顔で僕のカバンを覗き込む。僕がカバンから義歯を取り出すと、豊太郎さんが

「ほぉ、きれいにできましたなぁ。おい、お前、きれいな歯ができたよ」

その声に、コウさんの表情が少しだけゆるむ。

さっそく口腔内に装着してみる。まずは上顎。吸着はまずまず。そして下顎。意外にもすんなり入った。豊太郎さんから、

「おっ、良いじゃないか。元の顔に戻ったよ」

僕もコウさんの歯の入った表情は初めて見たが、かなり若返る。

「尾崎さん、どうですか。久しぶりに歯が入った気分は」

と笑顔でたずねると、白い歯を見せてニヤ~ッと笑顔を見せた。期せずして3人大笑い。

ただ、問題はここからである。咬合紙を口腔内に挿入し、「はい、カチカチ噛んででください」とお願いしても動かしてはくれない。やむを得ず、コウさんの背中側に回り、後頭部を僕の胸につけ、後ろからオトガイ部を持ち、咬合位に誘導する。最初は力の入っていたコウさんであるが、徐々に慣れてきたのか、こちらが余り力を入れなくても誘導できるようになった。カチカチカチというリズミカルな音に、豊太郎さんも関心があるようだ。

「先生、面白いですな」

何度か調整し、まずまずの噛み合わせができるようになったところで終了。これから使ってもらい、調子悪いところを調整していくことを伝えた。

片づけをしていると豊太郎さんが、

「先生は手品師のようですな」

とポツリ。僕は意味も分からずポカンとしていると、

「僕があんなにカチカチやっちゃうと、こいつに指を噛まれちゃいますよ。あんなことさせるのは先生だけですよ」

「そうですかぁ」なんて答えているとコウさんもこちらを見ている。白い歯がまぶしい満面の笑みで。

風のいざない 第14話  「気象予報士」      五島朋幸(新宿区)

伊藤かずさんはご主人を亡くしてからひとり暮らし。大きな病気はこれまでなかったのだが、膝の調子が悪く、ひとりで外出はできなくなっている。ご本人はいたって元気なのだが、週2回行くデイサービス以外は家の中だ。

「こんにちは、伊藤さん、歯医者で~す!」

と声をかけると、いつものように奥の襖がすぐに開いた。

「はいはい、どうぞ」

と声はするが、姿は見せない。ベッドからゆっくり起き上がっているのだろう。慣れたもので「では入りますよ」と言いながら部屋に向かう。

伊藤さんは残存歯も多かったのだが、歯頚部で折れてしまい、数本を残して残根状態になってしまった。本人は「こんなに歯が悪くなってたんじゃぁ全部抜かないと駄目かしらねぇ」などと言っていた。しかし、痛みも出ていないし、まずは噛める状態を作る目的で残根上の義歯を製作し、今日装着することになっている。

部屋に入るとまさに上半身を起こし、ベッドサイドに座ったところだった。少し寝ぐせのついた髪型で眩しそうに僕の方を見て、開口一番、

「出来た?」

「はいはい、出来てますよ。どうですかねぇ」

と、こちらももったいぶって答える。しかし、これまで伊藤さんが入れたことのある義歯は本当に小さな部分義歯で、これから装着する大きな義歯に慣れてもらえるかどうかは不安だ。

「今日、すぐにぴったりくるかどうかわかりませんが、必ず調整して直しますから心配いないでくださいね」

と、予防線を張っておく。鞄から取り出した上下の義歯に伊藤さんの視線はくぎ付けになる。

「まぁ、きれいねぇ」

まずは上から装着。残根上の義歯は入りにくいこともあるのだが、スッと入る。あえてここでは何も聞かず、下の義歯も装着してみる。多少、ワイヤークラスプがゆるく感じるが、まずは思惑通り。それから一呼吸して、

「伊藤さん、第1印象はどうですか」

「何かツルツルして気持ちいい」

と、笑顔に。こちらはほっと胸をなでおろす。

それから義歯周囲の適合チェック、大きさの確認、そして、咬合のチェックとひと通りの過程をこなすが、基本的に伊藤さんから不満の声は上がらなかった。

「伊藤さん、いきなりこんなに大きな入れ歯が入って、こんなにすんなり使える方はそんなにいないんですよ。伊藤さん、若いんですよ。適応力があるんだなぁ」

「えっ、そうなの。でも本当に気にならないわよ」

「すごいなぁ。でも伊藤さん。入れ歯は使ってなんぼですから、入れてるだけで問題なくても、これから痛みが出たりするケースはたくさんあるんです。次回はそういう調整をしますから、心配しないでくださいね。痛みがひどかったら外しておいて、次回僕が来た時にその場所を教えてくださいね」

伊藤さんは満面の笑み。白い前歯がまぶしい。荷物を片づけて帰ろうとすると、伊藤さんも玄関の方についてこられる。

「伊藤さん、ここでいいですよ。足、大丈夫ですか」

「今日は膝の調子が良いみたい。きっと明日は晴れるわよ。伊藤気象台はよく当たるんだから!」

風のいざない  第13話 「隔靴掻痒」     五島朋幸(新宿区)

鈴木清さんは脳梗塞後遺症で右半身に麻痺が生じてしまった。右利きだった鈴木さんは麻痺後、大分苦労されたらしい。しかし、そこは元エリート銀行マンの鈴木さん、できることはとにかく自分でやり、できないことだけは奥さまの幸さんに助けてもらう生活をされている。「私にやられたくないのよ、この人」というのが幸さんの評価であるが。ただ、どうしても自分でやりたいのだけど、どうしてもできないことがある。それが義歯を外すことだった。ふっと不満を漏らしたホームヘルパーが僕を紹介してくれ、訪問診療に行くことになった。

鈴木家のベルを鳴らすと、とても愛嬌のある笑顔で迎えてくださった幸さん。

「訪問の歯医者の先生でしょ。遠方までわざわざありがとうございます。さっ、さっ。入って入って」

と、こちらが声を出すすきもなかった。でも、その笑顔にとても親しみを感じる。

リビングに通されるとソファーに座った清さん。僕が部屋に入った瞬間は頑固そうなちょっと怖い顔をしていたけれど、一瞬にして満面の笑み。さすが元エリート銀行マン。

「どーも。さ、どうぞ」

僕は荷物を降ろし、ソファーにかけると

「鈴木さん、入れ歯の調子はどうですか」

とたずねた。

「いやね、入れ歯自体は良いんですよ。噛めるし、痛くもないから。でもね、外すときだけ困ってるんですよ。食事をした後に外そうとするんだけどねぇ…」

準備をして、さっそく鈴木さんのお口の中を拝見。下顎は左右にブリッジがあるものの歯列はそろっている。一方、上顎は左側は小臼歯のみ、右側は小臼歯と第2大臼歯のみ残存しており、そこに局部義歯が装着されていた。左側には1本、右側には小臼歯の近遠心から2本、そして大臼歯に1本のクラスプが付いていた。僕が両手で義歯を外そうとすると、そこそこの維持力があり、指先に少し痛みを感じるほどだった。

「これはいつ作られたんですか」

「入院中に病院で。1年くらい前かなぁ」

「その時から自分で外せないんですか」

と聞くと幸さんが、

「そうなのよ。うまく外れる時もあるんだけど、本当に外れない時は入れっぱなしにしとくのよ」

と言うと、ちょっといたずらっぽい表情をした。

鈴木さんに義歯を入れてもらうと、口の中でうまくコントロールして定位にカチッと収まる。それから、鈴木さん自身に外してもらうようお願いをした。まずは左手で左側のクラスプを外す。大分傾いてしまったところで右側の小臼歯部に手を持っていくが、左手がうまくクラスプをつかめない。何度もチャレンジするが空振りの連続。最後は、「あ~っ」といら立ちの声を上げた。

状況が少しわかったので1つアドバイスを。左側のクラスプは少しずらすだけにして、右のクラスプにアプローチしてもらう。今度は右側の小臼歯を少し下げるところまで来たが、大臼歯のクラスプが外れない。これだけの維持力があるのだから心配ないと考え、大臼歯クラスプの維持腕をニッパーでカチリ。鈴木さんの再々チャレンジ。

もう1度装着した義歯は「別に変らない」とのこと。先に左のクラスプをゆっくり下ろす。そこで幸さんが、

「全部外しちゃだめよ!」

と的確なアドバイス。その言葉を聞いてか聞かずか、今度は右の小臼歯部のクラスプをゆっくり下ろす。すると、カタッと入れ歯が外れた。無表情の鈴木さんを横目に幸さんが、

「お父さん、外れた、外れた。自分で外したわよ」

と大騒ぎ。

「これで私の仕事が1つ減ったわ」

という幸さん。鈴木さんはニヤッと笑った。

風のいざない 第12話  「母の顔」      五島朋幸(新宿区)

訪問看謹師の小出さんから昨曰連絡があり、江藤キヌさんのもとを訪間することとなった。江藤さんは末期がん。小出さんの「できるだけ早く」という口調からも、あまり時間かないことは感じられた。江藤さんのもとを訪間したのは、もともと入っていたアポイントの後。すっかり辺りは暗くなっていた。

江藤さんのお宅は木造平屋。少し建てつけの悪い引き戸を開け、「こんばんは」と声をかけると、娘の明子さんが出てきた。

「歯医者ですが、申し訳ありません」というと、「無理を申し上げまして」と深々と頭を下げられた。僕は「大丈夫ですよ。ご心配なく」とだけ答えた。

キヌさんの部屋に通されると少しくらい蛍光灯。部屋の温度が低いわけではないけど、背中のあたりにスーッとする冷気を感じる。そして、青白い顔で真上を向き、目を閉じているキヌさん。残されている時間がいくらもないことはすぐわかった。背後から昭子さんが寄ってきて、

「これが母の使っていた入れ歯なんですが、入れることはできませんか?入院する前からなので、1年以上は使っていないんですけど」

と申し訳なさそうに僕に渡した。決して大きくはない義歯だけど、あまりにもキヌさんの口が小さくなりすぎている。一応、口の前に義歯を近づけたけど全く入る気配すらしない。そこで、義歯を置いてまずキヌさんの顔のマッサージからはじめることにした。

ベッドの頭の部分に入ると上から頬、首、肩のマッサージを試してみる。途中で絹さんが「ウッ」という小さな声を上げたが、目を開けることはなかった。昭子さんはほぼ直立不動でこちらの様子を見ている。再び義歯を入れようと試みるが、どうしても入らない。明子さんは無表情のままこちらを見ている。

今度は、訪問用のマイクロモーターを取り出し、上下義歯の臼歯部辺縁を削合していく。静寂な空間に僕の手作業する音だけが聞こえる。熱くもないのに額に汗もにじんでくる。そして再びキヌさんの口元に入れ歯を装着しようとする。力を入れて唇を引っ張るキヌさんが眉間にしわを寄せた。「ハッ」と思い明子さんを見ると、同じように眉間にしわ。しかし、あと少し。

僕は、持っていた診療用セットから充填器を取り出し、球状になった部分で唇を引っ張り、上の義歯を入れる。すると意外と容易に口腔内に装着できた。もっと難しいと思われた下の義歯も同じ方法で装着できた。両方の義歯が口腔内に入った途端、安堵で僕のほうが「フゥ~ッ」とため息。キヌさんの眉間のしわも消えたように感じた。ちょっと落ち着いて振り返ると、深々と頭を下げている明子さんがいた。

翌日、診療室に小出さんから電話があった。

「先生、本当にありがとうございました。江藤さんは昨晩亡くなられました…。でもね、先生…。明子さん、私たちにあまり話をしてくださらない方なんだけど、今朝ね…。『母の顔で送ることができます』と言って涙を流して感謝されたのよ。ありがとう、先生…」

小出さんの涙声を聞きながら視界がにごった。

風のいざない 第11話  「ハーレム」      五島朋幸(新宿区)

山根秀子さんは、総入れ歯の調子が悪く3カ月前から訪問している。山根さんは御主人の治夫さんとふたり暮らし。秀子さんは脳梗塞を発症したのち、麻痺は残らなかったものの、ほとんど歩くことができなくなり、5歩進むのに3分以上かかってしまう。普段はテレビ正面の大きめのマッサージチェアに腰掛け、女王様のように君臨している。治夫さんの定位置は秀子さんのチェアと直角に位置する3人掛けソファのもっとも秀子さん寄り。僕は秀子さんの右隣りで治療をする。ここは僕の定位置。

治療のほうは順調に進んでいる。旧義歯の修理で落ち着かせ、新義歯を製作。その義歯も徐々に落ち着き、少し間隔をあけて様子をみることになった。

2週間ぶりの訪問。いつものようにドアベルを押すが反応がない。いつもなら治夫さんが出てきてくれるのだが、1分ほどしても反応がない。もう1度ドアベルを鳴らすも反応がない。仕方なくドアを叩いてみると、かすかに秀子さんの声がする。

「ちょっと待ってください」

それから2分ほどしてカチャッという音がして鍵が開いた。僕がドアを開けると、予想通り秀子さんが立っている。すぐに

「大丈夫ですか!」

と声をかけると、

「お父さんが帰ってこないのよ。どうしようかしら」

と気弱な声。ゆっくりゆっくり定位置のマッサージチェアに腰をかけたのはそれから3分後。秀子さんがチェアの横に置いてあった携帯を手に取り、治夫さんに電話をかける。

「お父さん、先生が来られているわよ。…そうよ、予定は3時だもの。もう3時でしょう…」

電話の向こうで治夫さんが謝る声がする。「もういいわよ。お財布はどこにあるの。わかったわかった。もういいわよ…」

いつもは温和な秀子さんの不機嫌な声、治夫さんには相当なダメージだろう。

「お父さん、昼はいつも喫茶店に行っちゃうのよ。すぐ下なんだけどね。毎日入り浸っちゃって。まったく」

と不機嫌さは変わらない。

さて、入れ歯のほうはと話を戻すと、

「先生、大分いいわ。食事をしていてほとんど気にならなくなったわ。よっぽど硬いものを噛むと左下が少し痛いけど、これくらいしょうがないでしょ」

「まあ、一度噛み合わせはチェックしましょうね。でも良くなりましたね」

そういうと、いつものように咬合紙をバッグから取り出した。

ひと通りのチェックを終えると秀子さんにこのまま使用してもらい、問題が発生するようだったら連絡してもらうように伝えた。

「あら、寂しいわね」

会計も無事終わり、荷物を整え、山根さんのお宅から次のお宅へと移動する。途中で治夫さんが行ったという喫茶店もあるので、もしタイミングが合うようだったら挨拶しようと考えた。いろいろとお世話になったし。

さて、治夫さんは…探すまでもなかった。喫茶店の店頭に置かれた3人掛けのイスの中央に陣取り、両脇にはかつての美女たち。

ふたりの女性に囲まれた治夫さんは、自宅でも見たことのないほどの満面の笑み。まさに至福の時を謳歌している最中だった。これじゃあ時間も忘れるよなぁ。

僕は声をかけることもなく、ハーレムを後にした。

風のいざない 第10話 「至福の一言」      五島朋幸(新宿区)

梅田ミチさんは、以前から義歯の調整にうかがっていた方だ。しかし、90歳の誕生日の日に脳梗塞を発症し、3カ月後に退院をされた。それから2カ月ほどしてから娘の恵子さんから連絡をいただき、再び訪問することになった。

久々に梅田さんのお宅に到着し呼び鈴を鳴らすと、恵子さんがいつものように笑顔で迎えてくださった。しかし、

「先生、ご無沙汰しております。母を見て驚かないでくださいね」

こちらも一応の覚悟はしてきたのだが、少し不安になる。ミチさんの部屋に行くと、以前は車椅子に座っておられたのだが、ベッドに横たわり、人相も大分変わっていた。鼻には酸素マスク、そして胃ろうも造設されている。僕はミチさんの手を握り、

「梅田さん、ご無沙汰しております。歯医者です」

と言うと、かなりしっかりとした表情でこちらを見てうんうんとうなずかれた。

恵子さんによると、脳梗塞後も体調は悪く、病院から退院許可が出なかったけれど、在宅主治医の先生にお願いをして、無理して退院してきたとのこと。その後も体調が悪く、生死をさまよったけれど、最近ようやく調子が良くなり、口から食べてほしいということから僕に依頼があったのだ。

もともとは上下の総義歯を装着していたが、入院中に外したままで現在は全く使用していない。そこで、嚥下のチェックをすることにした。意識もしっかりしているミチさんに、

「つばを1回、ゴクッと飲んでもらえますか」

と耳元で叫んだ。するとほどなく、自分のつばをごくっと飲む。のどの動きも悪くない。いや、驚くほどスムーズで力強い。今度は、恵子さんにお願いをしてとろみ剤を入れたお茶を用意してもらった。そして声をかけながら、ティースプーン1杯ほどのお茶を口に流し込んだ。これも力強く飲み込み、最後は「プハーッ」と息を吐いた。その姿に恵子さんも僕も思わず笑顔。

結局、飲み込みの力はまずまず期待できるので、日常の口腔ケアをしっかりしていただくこと、そして冷たいスプーンで口腔内を刺激する方法などを恵子さんにお願いした。

1週間後に訪問した時は顔色も良く、意識もしっかりされていた。恵子さんも

「最近よくしゃべるんですよ、何を言っているかはよく聞き取れないんですけれど」

「それはいい兆候じゃないですか。楽しみですよ」

氷水を用意してもらい、粘膜用ブラシで口腔ケア始めた。冷たい刺激にミチさんは少し顔をしかめたが、これも1つの良い兆候。そして僕はバックから嚥下用のゼリーを取り出した。今までの動きを見てきてゼリーを食べられると確信してはいるが、初めてのひと口はいつも緊張する。そこは悟られないように、ゼリーをティースプーンに乗せ、ゆっくりと口の中に運ぶ。それから唇をしっかりと閉じてもらい、そのままゆっくりとスプーンを引き抜く。するとすぐに、下顎が動き出し、10秒もしないうちにゴックン。それからもう10秒くらい様子を見ていたが、むせもしないし呼吸が変わることもない。心配そうに僕を見ていた恵子さんに、「しっかり飲み込めましたねぇ~、スゴイ」と言うと満面の笑み。まさにその時ミチさんが、

「ウンメ~!」

大爆笑。

風のいざない 第9話 「小次郎敗れたり」     五島朋幸(新宿区)

宮本伸江さんは脳梗塞後遺症で右半身麻痺。ご主人の武さんとのふたり暮らし。でもそれは、正確な表現ではない。ネコの小次郎も家族の一員だ。小次郎は黒猫で、4本の足先だけ白い小型のかわいいネコ。いつも伸江さんのベッドの足先に陣取り眠っている。

「こんにちは、訪問歯科です」

と声をかけると武さんがドアをあけ、

「はい、こんちは!どうぞ!」

と中に通される。部屋に入ると伸江さんが笑顔でお出迎え、小次郎も目を覚ましたようで眠そうな目でこちらを見上げている。

「宮本さん、どうでしたか? 入れ歯の調子は」

「そうねえ、大分なれたんだけど噛んでいると痛みが出るのよ。前ほどはひどくないんだけど」

と言うと、自分で下の総義歯をはずし、この辺というように指差した。

「そうですか、物を食べないでカチカチやっても痛くなくて、食事をすると痛みが出るんですね。それはまだ僕が食事の時の力のバランスを読みきれていないせいだと思うんですよ。今日も噛みあわせの調整をしますね」

さっそく準備をしようと診療バッグを開けようとすると、ベッドから抜け出した小次郎がカバンのにおいをかいでいる。武さんが、

「これ、コジ!邪魔するんじゃない!」とハエをよけるような手まねをすると、小次郎は後ろの棚にピョンと飛び乗った。

さっそく診療開始。力のバランスを見ながらの噛みあわせの調整であるが、なかなか噛み方が安定しない。痛みのあるところに集中した力を分散させていく。上顎義歯に指を当て、咬合紙を口腔内に入れてカチカチ噛んでもらう。その結果を見ながら少しずつ調整をしていくが、お互いなかなか根気のいる作業である。安定したと思われたところで武さんに、

「例のものありますか?」 

「おっ、いつものやつ。あるよ」

というと、太い筒状の缶を取り出し、中からおせんべいを1枚取り出すと武さんがそのまま伸江さんに手渡し、 

「どうだ、食べてみろ!」

せんべいを左手で受け取ると大きな口をあけてかじりつき、ゴリッ、ゴリッと大きな音を立てて噛み始める。武さんの「どうだ」ということにも耳を貸さず、伸江さんの顎はマイペースに動く。それからゆっくり、

「今は痛くないねぇ」

「じゃあ、これでまた使っていただいていいですか。実際に食事をすると少し違いますからね。絶対に良くなりますから遠慮しないで、どんどん悪いところは言ってください」

武さんに視線を移すと、伸江さんと同じようにうなづいていた。

「さあ」と思って診療道具をしまおうと思うと、ナ、ナ、ナント!小次郎がカバンの中に入っているではないか。ビックリして「アッ!」と声を出すと、武さんがすぐにそれに気づき、「小次郎!お前は何をするんだ!」と大声で叫んだ。これには小次郎もビックリ。あわててバッグから飛び出ようとしたが、中にあったものに足を取られ、飛び出したとたんテレビ台の角に頭をぶつけてしまった。「ギャッ!」という声とともにその横の棚に飛び乗った。よほど痛かったのか、少し涙目でこちらを見ている。武さんが、「小次郎、今のはお前が悪い!」と、だめを押しをすると小次郎は伏せてしまった。哀愁漂う姿で。

風のいざない 第8話 「食卓」      五島朋幸(新宿区)

日比野貞子さんは肺がんである。元からやせ気味だったという体は、今や体重20キロ台。義歯も合わなくなり、半年前からは上下とも総義歯を外し、入院中からペースト食だった。そんな時、息子の彰さんからの依頼で訪問診療にうかがった。

貞子さんはリビングの椅子に腰かけ、鼻用チューブで酸素吸入し、うつむいていた。息子さんが見せてくれたのはなかなか年代物の上下金属床。

「日比野さん、入れ歯、大分使いましたね」と言うとう、つむいたまま小さな声で

「はぁ」

それ以上の言葉はなかった。さっそく上顎の義歯を装着してみると、ゆるいことは確かだけど、何とか落ちずに着いている。上を取り出し、下を装着してみると、どこに収めていいのかわからないくらい不適合になっている。そこでティッシュコンディショナーを取り出し、上顎は少し柔らかめ、下顎はとにかく硬めに練って大量に盛り上げ、口腔内に挿入した。硬化したところで取り出してみると、下顎はかなりの厚みになってしまったが、装着時に安定するようになった。まずはこれを使って、不具合は次回調整することを伝えた。

2回目に訪問した時、彰さんが真っ先に玄関まで迎えに来てくれた。

「先生、ごめんなさい、まだ食事中なんですよ。どうしましょう」

「それは良かった。ぜひ拝見させてください」

「そうですか。いいんですか?それでしたらどうぞ」

「ところで入れ歯の調子はどうですか」

するとそばにいた女性が、

「お姉さん、すごく食べるようになったんですよ」

さっそくリビングに行くと、貞子さんは椅子に深く腰掛け、足元に電話帳を置き食事の真っ最中。鼻には酸素吸入用チューブが入っているものの、右手にはスプーン、食卓にはカレーとサラダが並んでいる。貞子さんの横に座り、じっと見ていてもスプーンのペースは変わらない。僕が横に来たことに気付いていないかのように、お皿からカレーを取り、うつむき加減ながら口に入れていく。唇でしっかり取り、スプーンを引き抜く。それからしっかり咀嚼してゆっくりゴックン。多少飲み込みづらいのか、ひと口を2回くらいに分けて飲み込んでいる。

彰さんに、「酸素はどうなんですか?」とたずねると、

「普段は毎分2リッターなんですが、食事中は3リッターにしてるんです」

「食事の後、息苦しくなりませんか?」

「大丈夫です」

すると貞子さんの妹さんが、

「でもすごいわねぇ。入れ歯を入れると、こんなに食べられるようになるのねぇ。本当にびっくりしたわ。最近ではほとんど私たちと同じもの食べているんですよ」

「本当ですか。すごいですねぇ。1回のお食事は何分くらいですか?」

「30分くらいかしら。もっと早い時もあるんですよ。」

「それならいいですね。長くかかりすぎると飲み込みの事故が起こりやすいので注意してくださいね」

「分かりました」

そんな会話を聞いて、知ってか知らずか、貞子さんは最後のひと口をそっと口に入れた。

風のいざない 第7話 「演技派?」      五島朋幸(新宿区)

初診の澤田キミ子さん。息子さんご家族と同居されている。ケアマネージャーからキミ子さんは認知症で口を開けてくれず、ケアをしようとすると噛みついたりするので大変だけれど、ぜひ、口腔ケアをやってほしいと依頼があった。

「さあ、頑張るぞ!」

と威勢よくいきたいところだが、自然とため息が。

澤田さんのお宅に到着し、ドアベルを押すと、明るい声でお嫁さんの美佐子さんが出迎えてくれた。嫌な緊張感から少し解放される。

「こんにちは、訪問歯科です」

「こちらこそお世話になります」

と普通に話をしていたのだが、突然、美佐子さんが小声になり、

「すいません、今日もちょっと機嫌が悪いみたいで…」

と困った顔をした。もちろんここまで来て引き下がることはできない。笑顔で、

「大丈夫ですよ、僕は」

と笑顔を見せて玄関に入った。不安は最高潮。

お部屋に入ると、ベッドの上で小さく丸まったキミ子さん。僕はキミ子さんの肩にそっと手を置き、

「こんにちは、澤田さん。はじめまして。歯医者です」

と、満面の笑顔を見せたが、キミ子さんは目も開けず、微動だにしない。

仕方なく、意思疎通もないまま口腔ケアに移ることにした。最初は頬のマッサージと思い、両手でキミ子さんの頬を触ったとたん、「ワウッ」という激しく大きなうなり声。あまりの声に一瞬ドキッとした。

「澤田さん、ちょっとお口をあけてみてくださいね」

と、声をかけながら指で唇を開け、少し中を見てみると、多少の欠損はあるものの残存歯は多かった。いや、縁上歯石も歯列に参加している感じもした。改めて懐中電灯を当てて観察しようとすると再びうなり声をあげ、顔を胸元に埋めるように丸まってしまった。後ろで見ていた美佐子さんも申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ている。

僕はバッグからプラスチック製の指サックを取り出し、左手の人差し指にはめ、右手に歯ブラシを持った。ベッドの頭のほうに立ち、丸まっているキミ子さんの頭を少し上に向かせるようにすると、歯ブラシをキミ子さんの右側の頬にそっと挿入した。すると、これまで単発に叫んでいたのだが、今度は「アァ~」と大きな声を発した。その瞬間、左手の指サックをキミ子さんの左側臼歯部に挿入。左手の人差し指は臼歯部に、残りの指は大きく広げて顔が動かないように固定し、ブラッシングを開始。途中、少し抵抗されることもあったが、基本的にはスムーズにケアは終了。

美佐子さんにはケアを継続的に行うこと、ご家族にできるような方法も考えていくこと、そしていずれ歯石も除去することを伝えて終了。次回のアポイントをとるため、美佐子さんが手帳を取りに奥の部屋に行かれた。残された僕は、目を閉じて再び丸まっているキミ子さんに、「お疲れ様でした。今日は終わりですよ。大変でしたね」

と声をかけると、キミ子さんの目がゆっくりと開き、まぶしい表情でこちらを凝視している。

「わかっていたんですね。意地悪だなぁ」

と声をかけると、再び目を閉じ丸まってしまった。

風のいざない 第6話 「私の主治医」     五島朋幸(新宿区)   

鈴木玉さんは義歯の調子が悪く訪問依頼があった方だった。ひとり人暮らしでリビングには玉さん専用のソファーがあり、そのソファーから手に届く範囲でいろいろなものが置いてある。テレビのリモコン、ティッシュ、急須、ポット、お茶の葉っぱなどなど。僕が訪問する時にはすぐに診療ができるように椅子までセッティングしてある。

「こんにちは。鈴木さん、歯医者です!」と声をかけ、いつものように引き戸を開けようとすると、中から勢いよく開けられた。

「はじめまして、娘の吉江でございます。先生にはいつもお世話になっています」

今日は遠方よりお母様の様子を見にこられたようだ。さっそくいつものように診療開始。

「先生、痛くなくなって大分噛めるようになったわ。先生ありがとうございます」

「それはすごいですね。今日は噛み合わせのチェックをしてあとは様子をみましょう」

         *

ひと通りの診療が終わり、器具をカバンにしまっていると吉江さんが、

「本当にありがとうございます。ひとりで歯医者も行けないし、あきらめていたんですよ。失礼ですけど、こういうシステムは昔からあったんですか?」

「そうですね。地域差はあると思うんですが、昔からあるんですよ」

「まったく知らなかったわ。多くの歯医者さんがやられているんですか」

「たしかに、メジャーにやられているとは言えませんねぇ。歯医者にとっても気軽にできるというものでもないんですよ。診療室は外来診療の時間が決まっているので、休憩時間や休診日を使って訪問診療されている方が多いんじゃないでしょうか。それだって難しいんですよ。例えば木曜日が休診日だからその日に訪問診療をしますと言っても、利用する方が『その日は病院に行く日ですからだめです』と言われたら終わりだし。なかなか生半可なことではできないんですよ」

「そうですか、なかなか難しいんですね。多くの方がやってくださるといいんですけど」

「歯科医院によっては訪問診療部のような形で訪問診療だけやるようなシステムを作ったりすることがあるんです。それはそれで貴重なんですが、僕は外来診療もやって、訪問診療もやるというのが本来の歯医者の姿だと思うんですよ。外来と訪問診療でお互いにいろんなことがフィードバックできるし」

「先生、私は千葉なんですけどそこまでは来て下さらないでしょう。私はどうしよう」

「そんな先のことですか!それは気の長い話ですね」

と言うと3人大笑い。それまで黙って聞いていた鈴木さんが、

「私はいいの。先生がいるもの」

「お母さんはいいわね!うらやましい」

再び大笑い。

風のいざない 第5話  「笑う門には」      五島朋幸(新宿区)

白田マサさんは、娘の坂口玲子さん一家と同居している。マサさんは92歳。膝が悪く、歩きには難はあるものの内臓に大きな問題はなく、基本的に元気なはずだ。しかし…。

マサさんたちの住む高級マンション到着し、玄関先のインターホンを鳴らす。いつもように少しだみ声で威勢のいい玲子さんの声で返事があった。マンション入り口のドアが自動的に開き、坂口家の部屋に向かう。部屋の前に玲子さんがドアを開けて待っていてくださった。「どうですか?」と尋ねると、玲子さんは苦笑いしながら少し首を振り、

「まあ、いつもの通り」

マサさんの部屋に入ると、

「白田さん、こんにちは。いかがですか、調子は?」

とハイテンションに声をかける。しかし、座椅子に座っていたマサさんは、いかにもつらそうな顔をしてこちらに視線を投げかけ、

「だめ、全然だめ。目も耳もだめ。歯も全然だめ」

そういって視線をまた下に降ろした。それから念仏のように

「長く生きてたって、良いことなんてなんもない」

とつぶやいた。

以前は快活な方だったらしいが、ここ数年はこんな調子らしい。玲子さんが、目や耳は難しいかもしれないけど、歯が良くなって食欲が出ると少しは変わるかもしれないと思って僕を呼んでくれたのだ。しかし、初診から3カ月、今のところ大した成果を挙げられていない。

いつものように、総義歯の調整を始める。玲子さんも僕の脇に座って声をかけながら見ていてくれる。外形の調整から噛み合わせの調整。毎回感じるのだが、痛みはいろいろ訴えるものの、顎の動き、噛む力は年齢を感じさせない能力がある。転機があれば、絶対使えるようになると思いながらの調整。

一応、歯医者としてできることを終えた時、玲子さんが、

「お母さん、目も耳も口もだめなんじゃあ、ヘレン・ケラーみたいね」

するとマサさんがすぐに、

「悪口ばっかり言ってんじゃないわよ」

「聞こえてるじゃないの!」

「悪口だけはよく聞こえるのよ!」

と言うと3人大爆笑。マサさんの笑い顔もはじめて見た。

     ※

その次に訪問した時、玄関先でいつものように僕を迎えてくれた玲子さんが、満面の笑みで指ではOKサイン。ちょっと意外で「どうですか」と尋ねると、「何だかんだ文句言いながら少し食べるようになったのよ。でも先生、きっと大変よ」

といたずらっぽく笑った。

マサさんの部屋にいつものように入ると、右手を大きく上げて、

「あぁ、先生、こっちこっち」

と言って何と笑顔で座布団をすすめてくれた。しかし、

「入れ歯が痛くて痛くて…」

まだまだ僕の苦難も続きそうだ。

風のいざない 第4話  「ステップアップ」      五島朋幸(新宿区)

ドアホンを鳴らすと、待ってましたかのごとく

「先生、お待ちしていましたよ」

と、家の中から元気な声が。ドアを開けると満面の笑顔で現れた久喜元幸子さん。まだ四十歳代の幸子さんは母親の田辺敏子さんと同居している。

この親子と初めてお会いしたのは、今から半年前。久喜元さんのお宅を訪間した時、福岡でひとり暮らしをしていた敏子さんを引き取ったばかりだった。リビングの横にある小さな和室でお会いした敏子さんは、青い顔でベッドに横たわり、煩は不健康にこけていた。僕たちにとって決して珍しい光景ではないが、まだ七十歳代前半には見えなかった。幸子さんは、

「福岡では、ぜんぜん食べていなかったらしいんです。昔はこの人、太ってたんですよ。昔使っていた入れ歯もあるんですけど…。全然入らないし」

眉間にしわを寄せて話す言葉に、僕までため息が出てしまった。物音もしない空気の中、さっそく敏子さんのお口を拝見。プラークを身にまとった歯が上下3本ずつ。そのうち2本は不自然に傾斜し、動揺もしていた。舌も真っ白で、口全体にピンク色を感じない。

「お母様は、普段どうやって栄養をとっているんですか?」

何か僕が悪いことを聞いたかのように、幸子さんは少し不満顔になり、

「ヨーグルトとか栄養ドリンクしか飲めないんですよ。食べられないんですから、しょうがないじゃないでずか」

怒りの矛先は完全に僕のほうに向いていた。こちらもちょっと面白くない。気持ちは分かるけど。

呼吸を整え、残す歯、抜く歯を判断し、悪い歯は早く抜き、残す歯を清潔に保つこと、そして早く入れ歯を作ることなどを説明していった。幸子さんの表情から、ようやく軽い笑顔が出てきた。眉間のしわは少し残して。

その後、敏子さんの治療は順調に進み、初診から3カ月後、上下に新しい義歯が入った。調整も無事に終了し、3カ月に1度の訪問へと移行した。

       *

幸子さんと一緒に奥のリビングに入る。そこには、3カ月前とは別人のように健康的でふくよかな敏子さんが腰掛けている。

「お母様!太ったんじゃないですか」

「そうよぉ、このあたり、これだもの」と言っておなかをつまむ。

「最近なんでも食べるのはいいんだけど、リハビリの先生にも食べ過ぎだって怒られるんですよ」

と、笑いながら困った顔の幸子さん。

ひと通りの入れ歯チェック後、

「お母さま…」

敏子さんも幸子さんも心配顔で僕のほうを見る。

「訪間はもうこれで終わりです」

思わず幸子さんが、

「先生に定期的に診ていただけると助かるんですけれども…」

と困った顔で僕に訴える。僕はゆっくりと、

「今度は診療室で待ちしています」と言うと、親子が顔を見合わせ、

「そうよねぇ~」

と3人大笑い。

風のいざない 第3話  「大和魂」      五島朋幸(新宿区)

自転車をマンション脇のスペースに止め、3階まで駆け上がる。決して運動不足ではないけれど、これも僕のトレーニング。階段から2軒目に斉藤幸太郎さんの部屋がある。斉藤さんはまもなく90歳でひとり暮らし。肺気腫があるため、鼻からの酸索が欠かせないが、とてもしっかりしておられ、部屋の中は歩いて移動することができる。

ドアフォンを鳴らすと30秒ほどして「カチッ」と鍵を開ける音がする。僕がドアを開けると直立不動、いつものように姿勢良く斉藤さんが立っておられる。僕もいつものように「こんにちは」と頭を下げる。そして、これまたいつものように斉藤さんが満面の笑みになる。

リビングに移動し、小ぶりの食卓に対面して座り、

「斉藤さん、入れ歯の痛みはどうです?」

「えぇ、おかげさまで大分なくなりました。でも少し左下に圧迫感を感じます」

「分かりました。今日も噛み合わせの調整からしていきましょう」

そう言って、僕は診療バッグから調整道具を取り出した。

ひと通りの診療が終わり、手を洗ってリビングに戻ってくると、前にはなかった古びた写真が後ろのカラーボックスの上に飾ってある。セピア色で端は少し破れた写真だが、そこには戦艦が写っていた。確か斉藤さんは海軍にいたと聞いたことがある。

「斉藤さん、これは昔、斉藤さんが乗られていた戦艦ですか」

「はぁ、そうです。大和です」

「えぇ!斉藤さん、大和に乗られていたんですか?戦艦大和ですか。すごいですねぇ」

でも、斉藤さんの表情はまったく変わらなかった。僕のほうは勝手に興奮し、

「僕たちの世代なんて、大和は宇宙に飛び出して行っちゃいましたよ、ハッハッハッ。最近では大和の映画も作られているんですよ。斉藤さん役の人も出てるんじゃないですか」

そんなミーハーな空気も斉藤さんには心地よくなかったらしい。雰囲気を察知した僕はフェードアウト気味に、

「すごいなぁ、歴史の生き証人ですね、斉藤さんは」

という言葉でくくった。すると斉藤さんがゆっくり顔を上げ、年齢を感じさせない鋭い目で正面の僕を凝視し、はっきり、ゆっくりと、

「戦争なんてやってはいけません」

そして静寂。斉藤さんにいつもの微笑が戻った。充分すぎる言葉だった。

それから2カ月後、ケアマネの野村さんから斉藤さんが亡くなったという報告を受けた。頭の中でひとつのフレーズが流れ続ける。

「戦争なんてやってはいけません」。

ひとつの歴史が終わった。

そして、ひとつの教訓がこの世に残った。

風のいざない 第2話  「孫の力」      五島朋幸(新宿区)

到着したのは閑静な住宅街に立つ一戸建て。決して新しくはないけどしっかりとした造り。呼び鈴を鳴らすと、重そうな扉がきしんだ音をたてて開き、その重厚感とは似つかわしくない明る<高い声で、

「先生、どうも。遠い所をいつもありがとうございます」。

声の主は立野卓子さん。いつもの満面の笑み。

「さあさあ、どうぞ中へ中へ」。

と通される。ここまではデジャヴのごとく。ここからが少し違う。いつもよりいたずらっぽい目をしてこちらを振り返り、

「今日はできましたの?」

僕は声も出さずにニヤッ。

いつものように寝室に通されると、電動ベッドにはご主人の立野真さん。脳梗塞で右半身に麻痺はあるが、ふくよかで赤味のさしたお顔はいつも笑顔だ。立野さんの下顎は天然歯列があるのだが、上顎は残っていた7本全部の歯冠が折れてしまっている。そこに今日、オーバーデンチャーが入るのだ。真さんも開ロ一番、

「できましたかな」

「はい、持ってきましたよ。どうですかねぇ」

と、こちらももったいぶって少しスローモーションでじらす。バックに入っていた義歯を取り出すと、ご夫婦の視線が突き刺さる。期せずして、ふたりの口から「おっ」と声が漏れる。ふたりが準備を終えると、さっそく義歯を真さんの上顎に装着してみる。残根があり、骨ばった顎堤には慎重に入れていくが、意外とすんなり装着できた。しかし、これまで上顎前歯がなかったせいで、義歯が入ると口唇が突っ張る感じがある。「おやっ、前歯を出しすぎちゃったかな」と不安がよぎる。それでも口を閉じてもらうと、さほど不自然に感じない。先手を打って、

「今まで上の前歯がなかったので急に入れ歯が入ると出っ歯に見えるんですよ。でも、すぐに馴染むと思いますよ」

「いえいえ先生、本当にすごいわ。以前の顔に戻りましたよ」。

と、卓子さん。

「そうですか、良かった!緊張の瞬間でしたよ」

僕たちの盛り上がりをよそに、真さん本人はいたって無表情。卓子さんが、棚の上に置いてあった手鏡を真さんに渡すと、一瞬、口元を見てすぐに鏡を返した。まあ、見た目よりも噛めることが大切なのだから仕方がない。噛み合わせの調整も終え、痛みもないことを確認して診療終了。相変わらず笑頻満面の卓子さんは、

「真狸ちゃんが見たら喜ぶわよ。おじいちゃん、すごく若くなったって言われるんじゃないの」。

などと声が聞こえる。僕は洗面台で手を洗い、戻ってみると真さんが先ほど戻した手鏡を無表情にしげしげと見ている。しかし、僕の姿を見ると何もなかったかのように手鏡を卓子さんに戻した。多少は気になるみたい。孫の力は偉大だ。

次回の予約を取り、外に出ると手拭用のタオルを洗面台に忘れてきたのに気づいた。すぐに戻り、「ごめんなさい」と言いながらドアを開けてみると…。卓子さんが大きな鏡台を寝室に移動中だった。

風のいざない 第1話「救いの言葉」     五島 朋幸(新宿区)

都営アパートの下に自転車を置くと器材の入った重いバッグを持つ。

「よっこいしょ」と思わず声が出る。背中にはデイパックをかつぎ、3階まで階段で昇る。都営アパートにはエレベーターのないものも多い。ひと息つくと古びた呼び鈴を鳴らした。

「こんにちは、歯医者です」

「は~い。先生、時間ぴったりね」

と、出てきたのは徳丸和子さん。母親のトキさんとのふたり暮らしだ。

いつものように隅々まで整理整頓されている部屋の中に入る。6畳の部屋の真ん中に電動ベッドが置いてあり、トキさんが横たわっている。

「お母さん、歯医者の先生来てくださったわよ。お母さんの大好きな歯医者さんよ。よかったわね」

と微笑みながら和子さんが声をかける。しかし、多発性脳梗塞のトキさんがその声に反応することはない。僕も、

「こんにちは、徳丸さん。調子はどうですか。おや、今日は顔色が良いですね」

「まあ、お母さん。先生に褒められたわよ」

上品な和子さんのとても愛くるしい表情に、僕も自然と笑顔になる。

準備を終えると、さっそくトキさんの顔のマッサージ。決して硬直しているわけではないが、この1年間使われていない口は筋肉の張りを感じない。それでも「動け、動け!」と念じながら手を動かす。

頬が少し赤みを増した時、ゆっくりとトキさんの目が開いたが、すぐに閉じてしまった。首から肩にかけてのマッサージも終えると、粘膜用ブラシで口腔ケア。傷つけないように丁寧にブラッシングをする。

約15分の口腔ケアが終わる間際、和子さんがお茶を持ってきてくださった。

「先生、いつもありありがとうございます」

この半年間、月2回のペースでこの口腔ケアが続いている。しかし、トキさんには何の反応もない。この口腔ケアに本当に意味があるのか、僕にも疑問であるが、和子さんの笑顔に救われる。

それから2週間ほどたったある日、和子さんから診療室に電話があった。

「先生、昨日の朝、母が亡くなりました。長い間ありがとうございました」

いつものような明るい声ではなく、すべてを抑さえ込んだ冷静な低い声。少しの間が空き、「先生、母が亡くなる前の晩、『ありがとう』って言ったのよ。あの母が。何年も声を出したことがなかったのに。私の介護してきた2年間がすべて救われました。先生の口腔ケアのおかげよ。本当に、ありがとうございました」

最後は涙をこらえきれなかったようだ。

電話を切った僕は、ほっとため息をついた。僕の半年間も救われた。