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【連載】退き際の思考/私たちの年代が役に立つとしたら…今なお歯科医療に熱意(松井裕子さん【後編】)

私たちの年代が役に立つとしたら…今なお歯科医療に熱意(松井裕子さん【後編】)

私たちの年代が役に立つとしたら…今なお歯科医療に熱意

松井裕子さん―後編
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松井裕子(まつい・ゆうこ)さん/1951年東京都生まれ。1976年東京医科歯科大学歯学部卒業。補綴学教室で1年間の副手・医員を経て、1981年同大大学院修了後同医局に助手として勤務。1990年4月より宮内庁病院へ出向。2017年3月、定年。非常勤歯科医師として同病院勤務。2024年、退職。

 歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生らにお話を伺い、引退を決意した理由や医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。
 今回は、宮内庁病院で勤務医として34年にわたる歯科医師キャリアを過ごした松井裕子先生(73歳)の後編。今後も何らかの形で歯科医療に携わり続けたいという松井先生にお話を伺った。前編から読む

―退職してもなお歯科医師を続けたいとのことですが、勤務形態や時間など具体的にどのような形をイメージしていますか。

 模索中ですが、退職直前は週1回勤務のリズムできたので週に1~2回、あるいはもっとフレキシブルな働き方ができればと思います。先進技術は専門の先生に任せ、診断と治療の方針についての相談に応じ、歯周組織や義歯のメインテナンスを中心に関われたらと考えています。体力次第の部分もあるし、歯科医師としての収入はあまり期待できないでしょうが、これまで50年弱培ってきた歯科治療のスキルを無理のない自分のペースで還元していければと思います。

―歯科医療への熱意を持ち続けているのですね。

 そうですね。今や歯科で扱う範囲も拡がり、それぞれの歯科医師が何らかの特徴を打ち出さないといけない時代になってきているかもしれません。一方で、医科のように専門分化が進んだ末に総合診療の必要性が浮上してきている時代変化もあります。もし私たちの年代が役に立つとしたら、総合的な対応ができる点にあると考えています。それをどのような形で実現できるか、同じような意志を持っている方たちと協力して明確にしていければと思うこともあります。

―「今なおスキルを活かしたい」、その原動力はどこから。

 学生時代から歯科医療の世界で生きてきて、折角今まで培ってきたスキルを無駄にせず、人のために役立てたいと感じています。以前、中学生時代の友人に頼まれて口腔状態を診た時の経験がとても印象に残っています。咀嚼も十分にできないほど悪い状態だったので、すぐに治療を開始すると、口腔状態がみるみるうちに改善し、顔色も良くなり若々しく元気になりました。人の役に立っていることが実感でき、そうした姿を見られるのは歯科医師冥利に尽きます。

診療続ける同世代の先生へ

―プライベートはどのような過ごし方を?

 大学時代から硬式テニスを続けていて、年に一度しかラケットを握れない期間もかなりありましたが、今は週に1度、夕方2時間ほどプレーしています。定年近くなってから新しいことに挑戦したいと思ってゴルフを習い始め、月に1~2回、東京近県のコースを仲間たちとラウンドしています。外出しない日は、幅広い分野の本を読んだり、手抜きをしてきた家の修繕などもしたりしながら過ごしていますね。

―ところで、松井先生が協会に入会したきっかけは。

 病院勤務になってからは、常勤の歯科医師が1名だけだったので、歯科の情報が入ってきませんでした。そこで開業している同級生に相談すると、「保険医協会が良いから入りなさい。セミナーをしっかりやってくれるし、役立つ情報も届けてくれるから」と勧められました。入会後は学術研究会などに参加しましたが、内容が勉強になるし面白く、受講するのが楽しみでした。接遇講習会も良い内容だと思ったので受講して、電話対応や患者さんへの話し方などを学び、病院に戻って看護師たちにアドバイスすることもできました。また、機関紙の紙面を切り抜いて事務方に渡して情報共有していましたね。保険医年金など、歯科医療以外の面でもとても助けられました。

―最後に、同年代で診療に従事し続けている先生方にメッセージを。

 頭が下がるばかりです。同年代の友人たちは閉院を検討したり、引退してしまったりするケースが増えています。自ら閉院を決めるのは非常に決断力を必要としますが、診療を続ける判断もまた重いものです。材料や治療法も進化を続けている中、たゆまぬ精進が必要とされる歯科医師という気の張る仕事を続けておられることに敬意を払います。この年代になると思いもかけない不調が出てくることもあるかと思います。体調管理をしっかりとしながら歯科医療に携わっていただけることを願っています。

―本日はありがとうございました。(完)

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#インタビュー #連載 #退き際の思考

【連載】退き際の思考/「最善の治療を目指し」勤務医として34年 退職後も歯科と関わる人生を模索中(松井裕子さん【前編】)

「最善の治療を目指し」勤務医として34年 退職後も歯科と関わる人生を模索中(松井裕子さん【前編】)

「最善の治療を目指し」勤務医として34年 退職後も歯科と関わる人生を模索中

松井裕子さん―前編

松井裕子(まつい・ゆうこ)さん/1951年東京都生まれ。1976年東京医科歯科大学歯学部卒業。補綴学教室で1年間の副手・医員を経て、1981年同大大学院修了後同医局に助手として勤務。1990年4月より宮内庁病院へ出向。2017年3月、定年。非常勤歯科医師として同病院勤務。2024年、退職。

 歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、 医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。
 今回は、大学助教を経て東京・千代田区、皇居の東御苑に所在する宮内庁病院で34年にわたる歯科医師キャリアを過ごした松井裕子先生(72歳)にインタビューした。退職後も「歯科に携わり続けたい」と語る松井先生の想いを2回に分け、紹介する。

―まずは歯科医師になったきっかけから教えてください。

高校時代に進路を決める時に、先祖代々歯科医師の家系でこの世界に馴染みがあったこと、歯科医療は社会的に貢献できること、女性も手に職をつけておくべきだと考えていたこと、手芸や縫い物など手仕事が好きだったことなどから、歯科医療の道に進むことにしました。卒後も研修が必要と感じ、以前から教育分野にも興味があり、教育・研究・診療を3本柱とする大学なら学生教育に関わることもできると思い大学の医局に残りましたが、最終的には、30代後半から勤務医としての歯科医師人生を歩むことになりました。

―ご実家は歴史ある歯科の家系と伺いました。

先祖は、日本で最古の歯科医師とも言われる松井源水で、両祖父は開業医、両親・兄とも歯科医師、父は18代目にあたり、歯科大学の教授をしていました。手元にある資料には、先祖が浅草公園で独楽回しをしている時に、徳川将軍が見に来たという記述もあります。祖父は私が小さい頃に亡くなったので直接話を聞いたことはありませんが、「祖父の代までは浅草で歯の薬を売ったり、曲独楽をしながら患者さんを集めていた」という話を父から耳にすることもありました。その後、浅草一帯は関東大震災や戦災で焼失し、浅草から動かざるを得なくなり、先代の歯科医院は閉院したのではないかと思っています。

「素晴らしいこと」病院勤務を回顧

―それでは、宮内庁病院で勤務することになった経緯は。

大学助手(現在の助教)として9年程勤務する中で、いわゆる“ガラスの天井”にぶつかることも多く、限界を感じていた頃に、出向の打診をいただき、縁あって宮内庁病院で勤務することになりました。年齢的にも体力的にハードな仕事はできないと感じていた時期でもあり、公務員としてなら時間的に周囲に迷惑をかけずに勤務できると感じたことも決め手となりました。

―宮内庁病院について教えてください。

保険請求や窓口負担などは一般的な歯科医院と何ら変わりありませんが、患者さんは基本的に宮内庁や皇宮警察の職員が中心です。着任時は常勤歯科医師1名、非常勤歯科医師2名、コ・メディカルは常勤看護師2名、非常勤歯科技工士1名という構成でした。歯科衛生士がおらず、細かなことはほとんど1人でやることとなり大変でしたので、事務方に何年も粘り強く必要性を説き、10年以上経ってようやく非常勤の歯科衛生士を採用してもらえることになりました。着任からしばらくの間は消耗品の購入予算も少なく、予算内に収めるために看護師と毎月「ダイエット、ダイエット」と言いながら、請求物品を絞り込んでいました。また、看護師は毎年1人ずつ交代するので、物品名を一から覚えてもらわなければならない上、歯科衛生士に比べると歯科診療に関われる内容が限られるので、TBIを自らして患者さんに驚かれたりしました。

―病院勤務を振り返ってみていかがですか。

病院は国の機関なので、経営面の心配はありません。予算に縛られるため、機器の導入の難しさなどはありますが、一人ひとり丁寧に時間をかけて、可能な限り最善の治療を目指しながらできたのは素晴らしいことだと思っています。また、仕事以外に宮内庁ならではの貴重な経験もできました。一方でやり残したことは、多々あります。私が医長だった頃は、自費診療の料金体系を作ることを何回も申請しましたが動いてもらえず、補綴診療に苦労しました。現在の医長の下で体系は整ってきたのですが、もっと早く実現できていたらと、残念に思っています。また、常勤の歯科衛生士を採用してもらえなかったのもやり残したことの1つです。他省庁の常勤歯科衛生士が出向していた期間があり、その時は仕事もはかどり、やはり歯科衛生士の存在は有難く大きいと思いました。

退職後も患者の「役に立ちたい」

―そこから退職までの経緯を教えてください。

65歳の定年まで勤務した後、新医長を支えるために、週3日の非常勤勤務に就きました。それまで担当していた患者さんの治療を完結させるため、徐々に日数を減らしながらソフトランディングをしようと思っていたのです。今年度あたりから週に2日、1~2年後には週に1日くらい勤務すれば大きな補綴なども完了する見通しでしたが、病院の方針もあり、今年3月いっぱいで勇退することになりました。本来であれば、最後まで責任を持って治療を完成させたかったのですが、それを叶えることはできなくて残念です。患者さんにその旨を伝え、他の先生を紹介するなど対応も大変でした。

―退職してもなお歯科医師を続けたい、どんな思いからでしょうか。

大学を24歳で卒業してから半世紀近く歯科医師としての研鑽を積み、仕事中心の生活を送ってきました。一人前の歯科医師になるために、たくさんの方たちのご指導を受け、多額の税金も注いでもらったことを考えて、恥ずかしくない仕事をしてご恩をお返ししたいという気持ちで頑張ってきました。その間に培った知恵や技術を活かしたいと思うのは、自然なことかなと感じています。また、途中で手を離さなければならなかった患者さんたちから、「次の場所が決まったらぜひ治療をお願いしたい」というお言葉もいただいたので、ありがたく思うとともに役に立ちたいという気持ちは残っています。(つづく)

後編では、歯科医師としての今後の見通しなどを伺う。

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#インタビュー #連載 #退き際の思考

【連載】退き際の思考/「やめることも前進の1つ」土台作りセカンドキャリアへ 医院最後の日まで地域に愛され―(張紀美さん【後編】)

「やめることも前進の1つ」土台作りセカンドキャリアへ 医院最後の日まで地域に愛され―(張紀美さん【後編】)

「やめることも前進の1つ」土台作りセカンドキャリアへ 医院最後の日まで地域に愛され―

張紀美さん(キミ小児歯科クリニック院長) ― 後編
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張紀美(ちょう・きみ)さん/1965年、長野県松本市生まれ。90年に松本歯科大学卒業後、同年東京歯科大学小児歯科学講座に入局。1997年同大学院修了。2010年キミ小児歯科クリニック開業。2024年5月同クリニック閉院。

 歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、 医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。
 今回は、今年5月をもって閉院したキミ小児歯科クリニックの張紀美先生(59歳/文京区)の後編。小児歯科の専門医として地域の子どもたちの口腔内を守ってきた張先生。医院最後の1日にお話を伺った―。(前編を読む

―医院の開院から閉院まで振り返っていかがですか。

 子育てで忙しかった頃は、まさか自分が開業するとは思っていませんでした。ただ、いろいろな問題が出てくる中で「マイナスにならなければ」と、借り入れなども少なくして医院をスタートし、大きな問題なく閉院することができました。多少なりとも地域医療に貢献できたと思いますし、開院して主体的に収入を得たことは良い経験になりました。

―協会に入会してみていかがでしたか。

 常勤の助手が退職した時に労務相談のために入会し、弁護士の先生にお世話になりました。院内感染防止対策講習会も受講しましたし、コロナ禍の支援金申請の際は、デンタルブックの動画が細やかな解説で役立ちました。一人で不安を抱えながら医院経営をする先生にとって、とても良いものだと思います。

日常生活に驚きと喜び

―引退後のセカンドキャリアについて、どのように考えていますか。

 60歳から動き始めるために、閉院後の1年間は準備に費やす感覚です。まず6月中にクリニックから自宅に持ち帰った物を片付けるために、独立した2人の息子の部屋を片付けて保管場所を確保しなければなりません。子どもの部屋にはたくさんの本や洋服、部活動関連の物がそのまま置いてあるので、不要な物を整理する必要があります。ある意味、クリニックの片付けよりも大変かもしれません。自分の目標の前に、居心地の良い空間を作るために身の回りを整理することから始めたいと思います。

―まずは新生活の土台作りからということですね。

 閉院後は、若い頃から夢見た韓国留学に行きたいと思っていましたが、それは少し先になりそうです。老犬のお世話、高齢な両親との関わり、ここ数年で嫁ぐであろう娘のこと…。人生の自由な時間はわずかだと思います。「何かしよう」と思った時には、それなりの難題に当たります。今後直面するであろう難題の隙間時間を有意義に過ごすため、環境を整えたいです。また、当初は語学堂*で学ぶことが留学の目標でしたが、「今更また勉強するのも疲れてしまうな」と思い、変更しました。新たな夢は、時間を気にしないで韓国の地方に赴き、現地の人たちとその土地の韓国料理とマッコリを交わすことです。ついでに韓国料理と伝統工芸なども学びながら気楽な旅がしたいです。そのため、毎日韓国語を独学で学んでいます。引退後の私のモットーは「疲れることはしない」「無理して頑張らない」です。試験に追われ頭が痛くなるような勉強はやめました。代わりに自分が豊かになる体験がしたいです。この目標が1年後に叶うといいなと思っています。(*=韓国の大学が運営する語学学校)

―日常生活の面では、何かイメージは湧いていますか。

 次男が2年前に独立した時、食事の買い出しや掃除の負担が少なくなったこともあり、休診日に「こんなに時間の余裕があるんだ」と感じました。それから月1回、韓国刺繍を習い始めました。院内の片付けの時に少し早く終わった日があり、仕事終わりに初めて1人で映画を観に行きました。有楽町まで足を運び、「平日の映画館ってこんなに人が少ないんだな。夕方5時半からビールを片手に映画が観られるんだ」と、何気ないことに驚きと喜びがありました。そんな些細なことに楽しみを感じながら日常が変化していけばいいかなと思っています。ここに至るまで子育て中の反抗期もたくさん経験したし、いろんな問題に直面してモチベーションの変化もありながら辿り着きました。せっかく得た時間なので、身体が健康なうちに、人に迷惑をかけないで楽しく生きたいというのが一番ですね。

―最後に、今まさに引退を考えている先生にメッセージをお願いします。

 そろそろ辞めたいと考えている先生は、自分のことを大切にする選択肢も持ってほしいです。「信頼されるほど背負う責任も多くなる。それがストレスに感じるなら辞めることも前進の1つだ」とは、ある本の一節です。生活費の問題などで続けなければならない状況があると思いますが、それでも辛いと思う方は一時的にマイナスになるかもしれませんが、ひと休みして充電して、また次に進んで欲しいと思います。

―ありがとうございました。

~編集後記~
 取材日は5月31日。それは医院を開いて丸14年、キミ小児歯科クリニック閉院の日。「ここでの最後の仕事」と快くインタビューを引き受けてくれた張先生。これまでの歩みを聞いていると、エントランスから「ガチャッ」と扉の音。すでに診療はしておらず、患者の来院はないはずだが、そこには一人の小学生の姿が。「いらっしゃい」―なんとも自然な流れで先生に迎え入れられると、その子は慣れた手つきで宿題をはじめた。聞けば、1歳の頃から診てきた患者さんだという。
 地域に根付き、子どもたちに愛されたキミ小児歯科クリニック。14年間、この場所で繰り広げられた“日常”が最後のひと時まで続いた。「お兄ちゃんに、次に学校帰りに寄っても先生はいないって伝えてね」と先生から告げられ、コクリとうなずいた後ろ姿が少し寂しそうに映った。

PROFILE/ちょう・きみ
1965年、長野県松本市生まれ。90年に松本歯科大学卒業後、同年東京歯科大学小児歯科学講座に入局。1997年同大学院修了。2010年キミ小児歯科クリニック開業。2024年5月同クリニック閉院。

引退を決心した瞬間 目標10年“計画閉院”は周囲に支えられ―(張紀美さん【前編】)

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#インタビュー #連載 #退き際の思考

【連載】退き際の思考/引退を決心した瞬間 目標10年“計画閉院”は周囲に支えられ―(張紀美さん【前編】)

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引退を決心した瞬間 目標10年“計画閉院”は周囲に支えられ―

張紀美さん(キミ小児歯科クリニック院長) ― 前編

張紀美(ちょう・きみ)さん/1965年、長野県松本市生まれ。90年に松本歯科大学卒業後、同年東京歯科大学小児歯科学講座に入局。1997年同大学院修了。2010年キミ小児歯科クリニック開業。2024年5月同クリニック閉院。

歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、 医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。
今回は、今年5月をもって閉院したキミ小児歯科クリニックの張紀美先生(59歳/文京区)の前半。開業当初から目標年数を定め、引退後の人生について考えていたというが、その道のりには苦難も。小児歯科の専門医として、長らく地域の子どもたちの口腔内を守ってきた張先生に迫る―。

「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年7月1日号)

―まずは歯科医師を志したきっかけからお聞かせください。

「女性も手に職を」という両親の考えのもと医療分野を勧められ、特に医師の父から「歯科医師の方が家庭と両立しやすい」とアドバイスを受けて歯学部に進学しました。大学院(小児歯科学専攻)在籍時に結婚して4年時に妊娠しました。私が在籍していました講座は4年間での学位取得が厳しいため、教授にご相談したところ「あと少しだから家で論文をまとめてきなさい」とご配慮いただき、なんとか修了することができました。この間、医局の先生方にはご迷惑をおかけしたと思います。その後、専門医を取得して3人の子どもの育児をしながら夫の歯科医院で小児の診療を担当しました。

―ご夫婦で医院を経営したのち、開業したきっかけは。

小児歯科専門医のため非協力児を診療する機会も多く、そのため大人の患者さまと同じ診療室で仕事をしているとやはり気を遣うことも増えてきました。そんな経緯から45歳で開業しました。末娘はまだ5年生になったばかりでした。「せめて中学生になるまでは…」と葛藤がありましたが、借入の返済の年齢を考えて区切りの良い45歳で開業しました。3人の育児と家事との両立は大変でしたが、「仕事を言い訳にして家事ができない」と言わないと心に決めました。将来、留学したいという思いも漠然とあり、まずは10年を目標に歩み始めました。振り返ってみると開業翌年以降は赤字や大きなトラブルもなく、仕事、家事、子育てをよくやり遂げられたと思います。

―開業当初からお一人で医院経営をされていたのですか。

開業当初は優秀な常勤の助手と非常勤の歯科衛生士がいました。しかし9年半勤務してくれていた助手が病気を患い、2019年末に退職してしまいました。ちょうどコロナが始まった頃です。冬休みの多忙な時期でとても困っていましたら、患者さまのお母さまが「良い人がいる」と優秀な方を紹介してくださり、とても助かりました。それ以外にも「受付募集」の案内を見て「私じゃだめかしら?」とお声をかけていただき、お願いしたこともありました。このように、タイミングよく周りの方に助けていただきながらなんとか続けることができました。

閉院を決めた要因「いつのまにかストレスに…」

―最終的に閉院を決めた理由は。

まず専門医として小さなお子さまの口腔管理を長期にわたって担う責任、最終的にはお子様一人ひとりが自分の歯に関心を持ち管理できるよう育成することに対しての責任がとても重くなってきたことです。その責任の重さがいつのまにかストレスになってきました。それから当初目標としていた10年に達したこと、3人の子どもが社会人になったことや、両親の高齢化という要因もあります。腱鞘炎の悪化、老後の生活資金面にも目途が立ったことなどいくつかの理由が重なりましたし、歯科医師として35年、よく頑張ったなという実感もあります。最後にこれらに加えて、マイナ保険証関連の対応もストレスになりました。

―閉院にあたり具体的な準備はどう進めましたか。

夏休みに来院する中高生以上の患者さまには「来年の3月が最後かもしれないから、もう一度来てね」と伝え始めました。また、万が一、次回の検診に来られなかった場合に他院で渡せるように、口腔内の状態を記してお渡ししていました。矯正治療も2019年には新規の受け付けをやめましたが、希望する方のために矯正の先生と連絡を取り、患者さまが困らないようにできることをやりました。

―閉院準備を進めていく中で心境の変化は。

パート従業員も体調不良で退職し、昨年冬頃からは1人ですべてこなしました。疲れ切って帰宅する生活に昨年11月末、とても虚しくなった瞬間がありました。もともと目標の10年は過ぎていたので引退のことも常に頭の片隅にありました。そんなある日の帰宅後、「あれ?家事も減って育児もないのになんでこんなに疲れ切ってるんだろう」「読みたい本も疲れて読めない…」、そうした思いが急に虚しくなって半年後の引退を決心しました。

―その後の動きは。

後任の先生に開業告知のパンフレットを作ってもらい、患者に安心してもらえるよう説明しながら手渡した

引退を決心した翌日の12月1日にM&Aの業者に連絡をしたところ、ちょうど物件を探していた女性の先生を紹介してくださり、10日ほどで契約が決まりました。今回は医院の承継ではなく、いったん閉院の形を取りました。私の患者さまは乳幼児も多いですが、永久歯列になった患者さまも多いです。そのため、長いお付き合いのあったお子さんを今後も安心して後任の先生にお任せすることができて良かったと思います。4月末で診療を終えて5月は片付けにあてました。保存するカルテはダンボール15箱ほどになり、M&Aの業者に保管を依頼しました。どうしても引継ぎ事項がある患者さまは、その内容を詳細に記してカルテを残しています。

思い入れある患者、最後の来院

幼い頃から成長を見守る患者を最後に診療を締めくくった

―最後の診療はどのようなものでしたか。

上の子が高校1年生の三兄弟でみんな2歳から来院してくれているとても思い入れのあるお子さんたちが最後になりました。1年ぐらい予約がなく、「どうしているかな」と思っていましたが、最後に診療できて花束と贈り物までいただいて、本当に良かったです。赤ちゃんの頃からの患者さまも多く、引退を決めてからはなんだか私自身が“親戚のおばさん”のような感覚で接していました。保護者の方からは「先生、長い間お疲れ様でした」とお言葉もいただき、無事診療を終えました。5月以降も放課後に訪ねてくる子や、わざわざ挨拶に足を運んでくださる保護者の方、中には「先生、明日缶ビール持って行っていいですか!」なんて方もいて、最後まで交流が続きましたね。

―引退後はアルバイトや勤務医として診療する予定は。

もう診療はしないと思います。アルバイトでも一度仕事を引き受けましたら責任が伴いますから簡単には辞められません。

―冒頭には留学というお話しもありましたが、充実した第二の人生が始まりそうですね。
(後編では、引退後のキャリアについてお聞きします)

PROFILE/ちょう・きみ
1965年、長野県松本市生まれ。90年に松本歯科大学卒業後、同年東京歯科大学小児歯科学講座に入局。1997年同大学院修了。2010年キミ小児歯科クリニック開業。2024年5月同クリニック閉院。

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「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年7月1日号)

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【連載】退き際の思考/“人生の半分は闘病”も悔いなし 「助けられた」共済制度と歩んだ歯科医師生活(石田昌也さん【後編】)

“人生の半分は闘病”も悔いなし 「助けられた」共済制度と歩んだ歯科医師生活(石田昌也さん【後編】)

人生の半分は闘病”も悔いなし 「助けられた」共済制度と歩んだ歯科医師生活(石田昌也さん【後編】)

石田昌也さん(石田歯科医院副院長) ― 後編(前編はこちら

石田昌也先生と妻の光子さん

 歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。
 今号は、杉並区上荻にある石田歯科医院の副院長、石田昌也先生の後編。息子への医院承継や、大切にしてきた親子関係について聞いた前編に続き、協会とのつながり、「悔いがない」という人生について、妻の光子さんとともに振り返ってもらった。

「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年6月1日号)

―協会に入会したきっかけは。

昌也先生:医師である妻の父から紹介されて保険医協会を知りました。「保障内容や利率の面で共済制度が良い」と助言を受け、特に休業保障を勧められたので、深く考えずに共済制度に加入するために入会して、はや50年近くになります。

―長らく協会に入会し、共済制度を利用してみていかがですか。

昌也先生:病気になったり、けがをするとやっぱり「どうしよう」と不安に思うものじゃないですか。そうした時、保険医協会に「助けられた」「救われた」という気持ちが今でもあります。数年前に足を骨折した時も協会に連絡すると、事務局の方がすぐに飛んで来て、保障内容などいろいろと説明をしてくれてほっとしたことを覚えています。

光子さん:協会にはいろんな面で助けてもらっていますね。

昌也先生:それから、スタッフの給与計算や年末調整など医院の経営や税務のことは、妻と税理士さんに任せきりだったんですが、その税理士さんを紹介してくれたのも協会です。税理士さんには、保険・自費収入から経費計算まで、毎月きっちりと会計のサポートをしてもらい、とても良かったと思っています。

▼休業のリスクに備える協会の「休業保障」とは?気になる掛金や給付額も…
▼入会案内はこちら

病とともに歩んだ歯科医師人生

ー長い歯科医師人生の中、さまざまな苦難もあったと思います。

光子さん:大変だったことと言えば、夫は働き盛りの40歳頃に網膜剝離を発症し、失明するかもしれないと宣告されました。

昌也先生:私は諦めが早く、その時に「もう続けられないんだな」と思い、歯科医師を辞める覚悟もありました。それでも入院中に「この先をどうしようか」と考え、失明しても患者さんの問診だけならできるんじゃないかと、その後のことに目を向けていましたね。

光子さん:退院後、幸いにも段々と症状が回復しました。入院中の半年間と、退院直後の期間は、知り合いの先生に助けてもらい、その後、運良く治療ができるまでに復帰しました。

ー大変な経験の中でも、石田先生の強さを感じるお話ですね。

光子さん:ただ、翌年に腎臓の病気が分かり、今でも闘病を続けています。

昌也先生:私の人生の半分は病気とともにあります。でも人生78年。地方から東京に出てきて、歯科医師として開業して、たくさん病気はしたけどまったく苦ではありません。「嫌な人生だったな」「歯科医師はつまんなかった」という感情はなく、自分の人生に満足しています。今は身体のこともあり、妻がいないと外にも出られないけれど、何も悔いはありません。それは協会の共済制度の助けがあったからこそで、そんな人生観でここまでくることができました。これから何を楽しみに生きる、ということはないけど、この前は息子夫婦と焼き鳥を食べたり、そんなふうに家族と食事をしたり、孫と将棋をしたり、楽しみながら生活をしています。最初はかわいそうだと思って、孫を勝たせるように将棋を打っていたんですが、段々と上達してきて、先日は、テレビを観ながら片手間で駒を打つ孫に負けてしまいました。

光子さん:主人を近くで見ていると、歯科医師として現役時代から仕事もプライベートも全力で、普通の人ではできないくらい人生を謳歌してきたと感じます。「悔いがない」というのは本心なんだと思います。


ー最後に引退を考える先生にメッセージをお願いします。

昌也先生:歯科医師は定年退職がないので、ある程度長く続けることができる仕事です。これは技術がある歯科医師の特権です。だけど、体力、視力の問題や、何か不安に思っていることがあれば、人生設計を考え直して、どこでリタイアをするか家族できちんと考える必要があります。あとは、患者さんが退き際を教えてくれる部分もあると思います。年齢を重ねれば、若い患者さんは自然と来なくなったり、世間からの見られ方は変化するんじゃないかな。でも長く診てきた高齢の患者さんは、「あの先生は義歯を作ったり、調整するのがうまい」と信頼して来院するかもしれません。そうした棲み分けは世間がするものかなと思っています。

ー本日はありがとうございました。

~編集後記~
庭先で撮影した桜の木です―。協会宛てに届いた1枚の写真を本紙に掲載したご縁で石田先生と初めてお会いした。今回、「私でよければ」と企画にご協力いただき、約1年ぶりに石田先生のもとへ。満開の桜は青々とした新緑に移り変わっていたが、変わらずお話し好きな先生の様子と、仲睦まじいご夫婦のかけ合いに心温まる取材となった。
協会設立初期からの会員である石田先生。病を患いながらも逞しく、家族思いの優しき人柄で、こうした先生方とともにある協会半世紀の歩みを感じるひと時であった。

石田先生の「退き際の思考」前編はこちら

▼休業、老後、死亡の3大リスクに備える協会の「共済制度」とは?

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「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年6月1日号)

#インタビュー #連載 #退き際の思考

【連載】退き際の思考/「息子の方が優れていた」親心溢れる父の“潔さ” 幼少期から育んだ信頼関係で医院託す(石田昌也さん【前編】)

「息子の方が優れていた」親心溢れる父の“潔さ” 幼少期から育んだ信頼関係で医院託す(石田昌也さん【前編】)

「息子の方が優れていた」親心溢れる父の“潔さ” 幼少期から育んだ信頼関係で医院託す

石田昌也さん(石田歯科医院副院長) ― 前編

石田昌也先生

歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生にお話しを伺い、引退を決意した理由や、医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。今回は、杉並区上荻にある石田歯科医院の副院長、石田昌也先生。1975年に開業し、“地域に根ざした歯医者”を目指し、患者から親しまれる歯科医院を一代で築いた。2009年に長男の博也先生と院長を交代し、現在は副院長として医院経営を支える。持病と闘いながらも「悔いがない」と語る歯科医師人生や、親子間の医院承継に大切なことなどについて、妻の光子さんとともに回顧していただき、前後編2回に分けて連載する。

「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年5月1日号)

―歯科医師として、一線を退こうと思ったきっかけは。

昌也先生:長男が歯科医師になり、静岡で勤務医として5年間働きました。その後、東京に戻り、一緒に診療をはじめて2年ほど経った頃です。私自身は、開業した時から一代限りで閉院しても構わないと考えていましたが、息子の治療や患者さんへの対応を見て、「これなら息子一人でやっていける」と思い、引退を考えました。私は30年あまり前から持病があり、通院しながら診療にあたっていたこともあったので、少しずつ現役を退いていく方向を考え始めましたね。

―引き継ぎにあたり、準備はどのように進めましたか。

昌也先生:2年ほどかけて管理者や開設者、その他金融機関や労務関連などさまざまな変更手続きをしましたが、「メインバンクだけは変えないように」と、息子に伝えていました。これまで長年続いてきた銀行との信頼関係をそのまま維持することで、医療機器の入れ替えなど大きな出費への備えにもなりますし、今後の医院経営を見据えても、息子自身にとっても良いことだと考えたからです。

―当初、息子さんと一緒に診療に携わってみていかがでしたか。

昌也先生:今まで通っていた患者さんは私が、新患はすべて息子が診るようにしました。そうすることで、患者さんを引き継ぐ苦労がありませんし、患者さんを取り合うようなこともなかったです。技工の模型や治療の技術を見ても息子の方が技術的に優れていて、静岡でしっかり経験を積み、勉強してきたことがわかりました。相性の問題もあり、歯科技工所は自分がやりやすい取引先に変えていましたが、治療内容で揉めるようなことはありませんでしたし、仕事に限らず、子どもと争ったことがありません。

―昔から親子関係を大切されてきたのでしょうか。

光子さん:子どもが小さい時から、夏休みに夫が計画を立てて、必ず家族旅行に出かけていました。2人の息子が高校を卒業するまで続きましたが、朝からテニスにプールと、いろんなことを楽しみたい夫に対し、宿でのんびりしたい子どもたちが初めて「なぜ予定を決められなきゃいけないのか」と反抗したんです(笑)。“争う”といえばそのくらいだったでしょうか。

昌也先生:今でも息子家族と定期的に会食をして、良い親子関係ができています。同じ仕事を引き継ぐからこそ、親子関係は大切だと思います。息子同士も大きな喧嘩をしたことがないし、未だに仲が良く、互いを認め合っています。

―信頼関係を軸に、院長交代まで順調に準備が進んだようですね。

光子さん:ただ最初のうち、息子は自分が担当する患者さんがいなかったので、ギャップを感じたみたいです。「ほかでバイトをしよう」とか、診療時間の延長や日曜診療を提案したり、少し心が揺れていた気がします。

昌也先生:その気持ちは理解できましたが、「ちょっと待って」と声をかけました。今は若いから良いけど、診療時間を延ばしたりするのは年を取ればだんだんときつくなる。自分の体やプライベート、家族サービスも大切にして「今のペースで続けたほうが良い」と、自身の経験をもとに助言しました。

無借金で承継を―内なる父の思い…

―その後、実際に院長を交代してみてどうでしたか。

昌也先生:診療以外の経営まわりのことをすべて一任しました。スタッフの採用面接などもすべて息子が担当しましたし、一切口を出しませんでした。医院経営は大変だったと思いますが、そういうことが好きなタイプに見えましたね。

光子さん:やっぱり医院に親がいるのは照れくさいじゃないですか。そんな時に夫が骨折して、コロナ禍も相まって医院を訪れる頻度が減りました。スタッフさんに聞くと、息子が「変わった」と言うんです。仲の良い親子とはいえ、父の目もなく自分の思い通りにできるとなると、良い意味で気持ちの変化もあったんだと思いますね。

妻の光子さん

―引き継ぎにあたり一番大切にされたことは。

昌也先生:医院には借金が残っていました。息子に引き継ぐにあたり、どうにかしてこれをゼロにしたかった。親子でなくても、やはりお金は一番問題になる部分。私は私、息子は息子と切り分けて、妻と協力してなんとか借金を完済することができました。

光子さん:子どもに対する思いは、人一倍強い夫です。息子の夢を絶つようなことはしたくないと、持病の詳しいことは子どもたちが学生のうちは伏せておきました。長男の学費や次男の留学、出費がかさむ時期だったけど、子どものためなら不思議となんとでもなるんですよね。

昌也先生:考え方は人それぞれですが、自分でたくさんのお金を抱え込むと、やはりトラブルが起きてしまうのかなと。私の人生観としては、死ぬ時にお金を持っていけるわけではないから、自分が生活できる程度でお金を持ちつつ、あとは家族に分け与えていきたいと思います。前はマンションに住んでいましたが、ライフステージに合わせて住むところを移していくなど、そうした人生設計を描きながら過ごしてきました。(つづく)

後編は、「助けられた」と語る協会との関わりについてお届けするー。

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「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年5月1日号)

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退き際の思考 歯科医師をやめる/10年越しの夢叶えたセカンドキャリア「神様から2つのチャンスを」(中野多美子さん【後編】)

【 退き際の思考 歯科医師をやめる/10年越しの夢叶えたセカンドキャリア「神様から2つのチャンスを」】

中野多美子さん(元協会会員) ― 前編 ※前編はこちら

歯科医師としての〝引退〟に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生や、引退を考えている先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、医院承継の苦労、現在の生活などを深堀りします。今回は、前号に引き続きワイナリー「ヴィンヤード多摩」の専務としてセカンドキャリアを歩む中野多美子さんの後編。歯科医師を引退したタイミングについて振り返ってもらいました。

―歯科医師を引退して1年少々経ちますが、引退したタイミングについてどう振り返りますか。

もう少し早くやめてもよかったと思っています。それは、いろいろな身体の衰えが出てきて、あらゆることに時間がかかってしまう。そうした中で、私は65歳あたりを目途に引退するほうが良かったと思います。

―歯科医師人生の思い出を聞かせてください。

歯科医療の仕事は好きでした。よい歯科医師人生だったと思います。人に関わることができ、感謝される素晴らしい仕事です。よい思い出も、そうでない思い出も沢山ありますが、特に印象に残っているものは、引退する前にいただいた手紙です。その方はとても美しい女性でしたが、口腔内にはほとんど残存歯がありませんでした。若い頃、多くの歯を抜歯され、とてもつらい思いをしたそうです。それ以来、なかなか治療に行けなかったといいます。その方から、「先生と巡り会えて本当によかった」と心のこもったお便りをいただきました。

とある患者さんたちとの出会い― セカンドキャリアのはじまり

―現在の目標は?

まずはワイン作りという、歯科医療とはまったく違う方向に進んだので、周囲の皆さんはびっくりしています。私は神様から二つのチャンス、つまり私は二度も人生を味わわせていただいたと思っており、本当にありがたいと感じています。目標としては、経営的に会社をきちんとした規模、形態にしたいと思っています。私は今、ワイナリーの中で畑を担当しているのですが、畑や農地を大きくしていくとか、ワインの品質も向上させていきたいです。

―セカンドキャリアとしてワインづくりを選んだ理由を聞かせてください。

最初は、ワインを飲んで楽しむだけの〝ノムリエ〟でした。ただ、大好きなワインを飲んでいくうちに、ワインについて体系的に勉強したくなり、いくつかのワインスクールに10年ほど通いました。また、私の医院にグループホームの方たちが患者さんとして来院していました。その方たちが年を重ねた時に働く場を作りたい、その方たちが作ったブドウでワインを作りたいというのが、ヴィンヤード多摩を設立した目的です。人間は社会と関わることで、自分の価値や存在意義を必ず見出していくものだと思います。障がい者の方々が高齢になって仕事ができなくなってしまった後、経済的な面だけではなく、社会とのつながりという面から、畑の仕事に携わってほしいと考えています。ブドウに袋をかけたり、草刈りをしたり、畑の作業は能力に応じた仕事の種類がたくさんあるものです。現在、東京都は、就労に困難を抱える方が必要なサポートを受け、他の従業員とともに働いている社会的企業のことをソーシャルファームと位置付けていて、今はその認証を受けるためにがんばっています。

―現在のお仕事で最近、一つ夢が叶ったそうですね。

構想から10年かけて、ついにグループホームの方たちが手掛けたワインが完成しました。ようやく一つの目標を達成しました。ワインボトルにはグループホームの皆さんの似顔絵のエチケット(ラベル)を付けます。自分たちが作ったものを外で売るまでの一連の流れが大切なので、これを店頭で販売して1つの仕事が完結するのが楽しみです。

―先生と同じように、引退の時期を考えている先生方がいらっしゃると思います。最後にそうした方々へメッセージをお願いします。

医院を引き渡す相手を尊重してなるべく速やかに身を引くのが良いと思います。私だけではなく、身体の衰えは65歳前後の多くの人が直面するものだと思います。また、引退をするにしても3年、5年と準備の時間がかかると思いますので、引退の時期と、引き継ぐ相手など時間をかけて考えていくことが大切なのかなと思います。

―ありがとうございました。(完)

(前編を読む)

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「退き際の思考」を紙面で見る(「東京歯科保険医新聞」2024年1月1日号)

退き際の思考 歯科医師をやめる/「一生働けるわけではない」医院継承の〝反省〟(中野多美子さん【前編】)

【 退き際の思考 歯科医師をやめる/「一生働けるわけではない」医院継承の〝反省〟】

中野多美子さん(元協会会員) ― 前編 後編はこちら

 今回から、歯科医師としての〝引退〟に着目した新たな企画を連載します。すでに歯科医療の第一線を退いた先生や、引退を考えている先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、医院継承の苦労、現在の生活などを深堀りします。
 初回は、40年以上もの間、歯科医療に携わり、現在はあきる野市でワイナリー「ヴィンヤード多摩」の専務としてセカンドキャリアを歩む、中野多美子さん。反省する部分があったという医院継承や、異業種へ飛び込んだ現在の暮らしについて、2回にわたり掲載します。

―単刀直入に、歯科医師を引退しようと決めたきっかけは?

若い頃には想像がつかなかった身体的な衰えを実感したことです。例えば、腱鞘炎や視力の低下、また、海馬の衰えによる記憶力の低下です。はじめの頃は、身体の衰えを受け入れられなかったのですが、だんだん老化を認めるようになりました。若い頃にはなかった別のストレスが増え、疲労度も増してきました。そうしたことが積み重なり、真剣に引退を考えましたね。

―歯科医師の場合、視力の低下は特に影響が大きいと思います。

周囲の他科の先生方を見ていると、他科と比べて歯科は手先の動きや目の動きも多いため、引退は早い印象があります。


―周囲には相談されましたか。

具体的に周囲に相談したことはないですが、歯科医師会の先生方とお会いするときに、引退の話はよく話題に上りました。同期の先生方の中には、引退された先生、診療時間を短縮された先生が何人もいらっしゃいました。私だけが特別ではなく、年齢とともに出てくる話だと思いますから、受け入れるしかないと改めて感じました。

「関係がギクシャク…」医院継承を振り返る

―現在は医院を継承されているということですが、そのあたりのお話について教えてください。

継承は、医療人生の中で最後の大きな仕事です。一生働けるわけではありませんので、うまく引き継いでいかなければなりません。60歳頃から継承を考えはじめ、以前から後を継いでくれることになっていた娘夫婦に、具体的に相談していきました。本人たちは、もう少し外でキャリアを積みたかったようですが、お願いして医院に戻ってもらいました。
しかし、実際に医院に戻ってもらうと、診療スタイルの違いが明確に出てきました。「40年培ってきた自分のキャリアは間違っていない」という自負がありましたので、当人たちの診療スタイルを自分の方に近づけようとしました。それが軋轢となり、関係がギクシャクしていきました。スタッフも不安になって、退職される方もいました。今思えば、自分のキャリアに固執して、皆を苦しめたことを反省しています。医院を引き継ぐことと、診療スタイルをどこまで引き継ぐかという点は、棲み分けをもっと上手にできればよかったと思います。
そんな訳で、自分の影響力を無くし、新しい先生が診療しやすくするためには、速やかに引退して、一切口出しをしない、姿を現さないことに決めました。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」です。今は安定した医院の運営をしています。

―中野先生が担当していた患者さんはどうされましたか。

歯科は口腔内という身体に接触する治療ですので、患者さんと深く関わることが多く、引退をお伝えすると『先生辞めないで』と言われることが多々ありましたが、その時は「後を継いでくれる先生をよろしくお願いします」とお答えしました。継続して来院される方も、そうでない方も、新しい先生との相性もありますので、そこは継いでくれる先生にお任せしました。そうして新しい先生のスタイルの医院になってゆくと思います。
(つづく)

後編を読む)

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退き際の思考 歯科医師をやめる/資金面が一番大切「保険医年金に支えられている」税制学び〝年金使用計画〟も作成(古田裕司さん【後編】)

【 退き際の思考 歯科医師をやめる ② 資金面が一番大切「保険医年金に支えられている」税制学び〝年金使用計画〟も作成 】

古田 裕司さん(元協会会員) ― 後編 ※前編はこちら

マラソン大会のメダルコレクションの数々と一緒に

歯科医師としての“ 引退に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生や、引退を考えている先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、医院承継の苦労、現在の生活などを深堀りする。今回は古田裕司さん(63歳)の後編。最も大切であるという引退後の資金面について教えてもらった。

―閉院する際に、その後のことについてはどのように考えていましたか。

閉院後の資金面が一番大切だと思い、40歳を過ぎたあたりから具体的に考えていました。開業した時から国民年金に加入し、それと同じ頃に歯科医師国民年金基金ができたので加入しました。それから小規模企業共済にも入っています。そして、一番役に立っているのが保険医協会の「保険医年金」です。最初は少ない口数からはじめて、最終的には満口加入していました。公的年金の受取は65歳からなので、それまでは保険医年金と、解約した小規模企業共済に支えられています。

*保険医協会の“保険医年金”とは…?

 ―開業当初から将来的な資産へのイメージがあったのですね。

そうですね。開業と同時に、口数が少ないながらも共済制度を利用していました。だんだんと増口していった形です。それから年金関連の支出について、「〇〇生命に△万円」のように、どこにいくら支払うかを表にまとめています。年金の受け取りについても同様で、「年金使用計画」を作成し、現在からの約20年間を「活期」、その後10年を「余生期」として、自分が90歳になるまでの所得が一目でわかるようにしています。こうして計算すると、どんなペースでお金を使えばよいかがわかります。営業に来る生保会社職員もこの表を興味津々で見ていきますね。

「みなさんのためになれば―」 90歳までの支出入の見通しが細やかに記された ”年金使用計画”を見せてくれた

 早く辞めて〝良かったこと〟

―では、これまでの人生をどのように振り返りますか。

振り返ると30年間、うまく仕事ができたかなと思います。患者さんもたくさん来ましたし、目や腕の衰えを考えても60歳で辞めてよかったのでしょう。第一の人生が30歳まで、第二の人生は60歳までです。昔は第三の人生と言うと、〝老後〞のイメージだったと思いますが、今は第三の人生として、20年間は楽しめるんじゃないかと思っています。〝老後じゃない〞第三の人生を考えないといけないと思っていますね。

―古田先生にとって第三の人生とは。

マラソンやツーリング、それからいろいろなところに旅行に行きたいと思っています。バイクはけがをして仕事ができなくなると困るので、一旦、離れていたんです。子どもが一人前になったので、またバイクに乗り始めました。マラソンは40代から始め、今も続けています。

―現在の生活はいかがですか。

とても充実していますね。自分としては70歳で引退すると、できることが少ないのではないかと思っています。パラグライダー、スキューバダイビングなどいろいろなことに挑戦しようとしていますが、中にはライセンス取得に年齢制限があるので、そうした意味では早く引退して良かったと思います。昔、やりたくてもできなかったことや、70歳を過ぎてからではできないことを、現在やっています。

―引退や閉院を考えている、現役の歯科医師の先生にメッセージを。

現役時代から、引退後の資金面の計画を立てることが重要だと思います。そのためには、リタイア時期をある程度決めなければいけません。また、僕は税理士に頼らず、税制について自分で研究しながら知識を蓄えました。租税特別措置法第26条(特措法26条)について学ぶことで、確定申告を行う際にとても便利でした。ただ、僕のように60歳くらいで辞めるのがすべてだとは思いません。先輩には、「俺は仕事が好きなんだよ」と、仕事の緊張感を楽しみながら現在も歯科医療に携わる方もいます。人生にはいろいろあるので、人それぞれで良いと思います。

―本日はありがとうございました。前編を読む

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退き際の思考 歯科医師をやめる/自作の〝閉院計画〟 「前倒し重ねた」引退決意後の変化(古田裕司さん【前編】)

【 退き際の思考 歯科医師をやめる ① 自作の〝閉院計画〟 「前倒し重ねた」引退決意後の変化 】

古田 裕司さん(元協会会員) ― 前編 ※後編はこちら

閉院計画カレンダー 「2021年3月31日 close」当初の閉院予定が記されていたが―

歯科医師としての〝引退〞に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生や、引退を考えている先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、医院承継の苦労、現在の生活などを深堀りする。今回は、開業から約30年、還暦を迎える直前に閉院を決めた古田裕司さん(63歳)の前編。〝周囲よりも早かった〞という引退のタイミングや独自の〝閉院計画〞について語ってもらった。

―引退はいつごろから考えていましたか。

私が大学を卒業する頃は、「人口2,000人に対して歯科医師1人」という当時の厚生省の政策目標が達成され、歯科医師が多くなることが見込まれた時代でした。その後、勤務医として4年間勤め、28歳で開業しました。同級生の中には法人化して医院を拡大した人もいますが、歯科医師数が過剰になると予想した私は当初から医院を大きくすることは考えておらず、開業直後から60歳で一線を退くことをおぼろげながらにイメージしていました。

―最終的に引退を決断したきっかけは。

58歳の時、診療中に体調を崩し、救急車を呼んだことがありました。診療外でも何度か同じようなことがあり、60歳頃に歯科医師を辞めることを決めました。

―医院の承継などは考えましたか。

2歳年下の妻も歯科医師で、二人で医院経営をしていましたが、歯科医師が増えることを予想して、次の世代に医院を譲ることはやめておこうと決めていて、結果的に娘は獣医師になりました。妻が一人で続ける選択肢もありました。でもその頃、いつも妻が診ている患者さんを僕が診た時にう蝕を見つけて、「妻の目も見えづらくなっているかも」と気が付いたんです。妻も老眼になりつつありました。そうしたこともあり、一緒に歯科医師を辞める決断をしました。

閉院の準備治療方針にも変化が

―閉院の準備はいつ頃から。

本格的な準備は、2020年のはじめ頃、59歳の時です。当初は、1年後の2021年3月31日で閉院しようとしていました。しかし、辞めると決心すると不思議と仕事に身が入らないんです。歯科医師の仕事はとても神経を使うので、気持ちが続かないとできません。ですから、今度は20年7月の60歳の誕生日で辞めようと時期を早めましたが、さらに前倒しを重ね、結果的に20年3月に閉院しました。

―結果的に約1年の前倒し。決心してからすぐの閉院だったのですね。

とはいえ、若い頃からいつかは閉院するであろうことが頭にあったので、15年頃から10年カレンダーを作成して、閉院計画を立てていました。引退に向け「残り〇カ月」と記してイメージしていましたし、学校歯科医を辞めるなど、やらなければならないことを計画的に進めていきました。長期的なメインテナンスが必要となるインプラント治療なども扱うことを止めるなど、治療方針にも変化がありましたね。

―患者さんにはどのように説明しましたか。

辞めると決めてからは、すぐに患者さんに打ち明けはじめました。年配の患者さんから「続けてもらわないと困る」と、お叱りを受けたこともありました。生活圏が定まっている方にとっては仕方がないことかもしれません。それでも、自分の病気のことなども踏まえ、スパッと辞めることが一番良かったと思います。若い患者さんからはすんなりと受け入れられ、他院の先生を紹介する形を取りました。あまり大事にしたくないということを念頭に、手紙を含め、計2030人に閉院を伝えたでしょうか。閉院後もしばらく電話がかかってきましたが、看板を下ろして、軒先の診療案内もテープで目隠しすると、途端に連絡が減りました。張り紙でお知らせすると、「また再開するのでは」と勘違いされてしまうので、多少費用はかかりますが、看板を下ろすのが良いと思います。それでも商店街で患者さんに会うと、「どうして辞めたの」と聞かれることはありますね。

「古田歯科医院」― 看板を下ろすと、問い合わせが減った

―その後、診療に従事されることは。

後輩が病気を患い、2カ月ほど医院を手伝いました。その後、後輩が亡くなってしまい、医院承継を打診されましたが、これからの自由な人生を送るためにも、歯科医師としての第一線を退いたので、お断りしました。

―閉院後の医院を貸し出すことなどは考えましたか。

内装はかなり黒ずみ、ボロボロになってきて剥がれているところもあります。医院を続けるには一新しないといけない状況です。開業14年目にユニット2台と、内装を新しくしましたが、診療をするなら1千万円以上の改装費用がかかります。また、今の基準をクリアしないといけないので、賃貸は考えませんでした。(つづく)

 ※次回は「最も大切」と話す引退後の資金面について伺います。後編を読む

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