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診療報酬改定率発表に関する理事会声明

2010年度の診療報酬改定率が発表になった。歯科+2.09%、医科入院+3.01%、医科診療所+0.31%と医科歯科横並びが解消された。10年ぶ りのプラス改定であり、小泉構造改革が行ってきた社会保障費抑制策を止め、新しい方向に転換したという点で新政権の政策を評価したい。

しかし、歯科の改定率は2.09%である。東京の一診療所あたりの平均点数はおよそ25万点であり、改定による収入増は月5千点にしかならない。これで東京の歯科医療崩壊に歯止めがかかるとは思えない。

歯科医療は1人で行えるものでは無いが、今、多くの歯科医はスタッフ雇用に苦しんでいる。10年間続いた医療費抑制のため、スタッフの雇用を含めた経費 の削減で何とか耐えてきたが、その削減も限界を超え結果的にワーキングプアの歯科医師が増大してきている。必要なスタッフを確保し、ワーキングプアを解消 するためには、大幅な改定が必要である。

今回の改定では民主党が言う医療再生の第一歩としては不充分である。このままでは歯科医療の質の低下が危ぶまれる。現場に基づいた改定内容を実施するとともに、医療再生のためのロードマップの設定を要求するものである。

風のいざない 第9話 「小次郎敗れたり」     五島朋幸(新宿区)

宮本伸江さんは脳梗塞後遺症で右半身麻痺。ご主人の武さんとのふたり暮らし。でもそれは、正確な表現ではない。ネコの小次郎も家族の一員だ。小次郎は黒猫で、4本の足先だけ白い小型のかわいいネコ。いつも伸江さんのベッドの足先に陣取り眠っている。

「こんにちは、訪問歯科です」

と声をかけると武さんがドアをあけ、

「はい、こんちは!どうぞ!」

と中に通される。部屋に入ると伸江さんが笑顔でお出迎え、小次郎も目を覚ましたようで眠そうな目でこちらを見上げている。

「宮本さん、どうでしたか? 入れ歯の調子は」

「そうねえ、大分なれたんだけど噛んでいると痛みが出るのよ。前ほどはひどくないんだけど」

と言うと、自分で下の総義歯をはずし、この辺というように指差した。

「そうですか、物を食べないでカチカチやっても痛くなくて、食事をすると痛みが出るんですね。それはまだ僕が食事の時の力のバランスを読みきれていないせいだと思うんですよ。今日も噛みあわせの調整をしますね」

さっそく準備をしようと診療バッグを開けようとすると、ベッドから抜け出した小次郎がカバンのにおいをかいでいる。武さんが、

「これ、コジ!邪魔するんじゃない!」とハエをよけるような手まねをすると、小次郎は後ろの棚にピョンと飛び乗った。

さっそく診療開始。力のバランスを見ながらの噛みあわせの調整であるが、なかなか噛み方が安定しない。痛みのあるところに集中した力を分散させていく。上顎義歯に指を当て、咬合紙を口腔内に入れてカチカチ噛んでもらう。その結果を見ながら少しずつ調整をしていくが、お互いなかなか根気のいる作業である。安定したと思われたところで武さんに、

「例のものありますか?」 

「おっ、いつものやつ。あるよ」

というと、太い筒状の缶を取り出し、中からおせんべいを1枚取り出すと武さんがそのまま伸江さんに手渡し、 

「どうだ、食べてみろ!」

せんべいを左手で受け取ると大きな口をあけてかじりつき、ゴリッ、ゴリッと大きな音を立てて噛み始める。武さんの「どうだ」ということにも耳を貸さず、伸江さんの顎はマイペースに動く。それからゆっくり、

「今は痛くないねぇ」

「じゃあ、これでまた使っていただいていいですか。実際に食事をすると少し違いますからね。絶対に良くなりますから遠慮しないで、どんどん悪いところは言ってください」

武さんに視線を移すと、伸江さんと同じようにうなづいていた。

「さあ」と思って診療道具をしまおうと思うと、ナ、ナ、ナント!小次郎がカバンの中に入っているではないか。ビックリして「アッ!」と声を出すと、武さんがすぐにそれに気づき、「小次郎!お前は何をするんだ!」と大声で叫んだ。これには小次郎もビックリ。あわててバッグから飛び出ようとしたが、中にあったものに足を取られ、飛び出したとたんテレビ台の角に頭をぶつけてしまった。「ギャッ!」という声とともにその横の棚に飛び乗った。よほど痛かったのか、少し涙目でこちらを見ている。武さんが、「小次郎、今のはお前が悪い!」と、だめを押しをすると小次郎は伏せてしまった。哀愁漂う姿で。

風のいざない 第8話 「食卓」      五島朋幸(新宿区)

日比野貞子さんは肺がんである。元からやせ気味だったという体は、今や体重20キロ台。義歯も合わなくなり、半年前からは上下とも総義歯を外し、入院中からペースト食だった。そんな時、息子の彰さんからの依頼で訪問診療にうかがった。

貞子さんはリビングの椅子に腰かけ、鼻用チューブで酸素吸入し、うつむいていた。息子さんが見せてくれたのはなかなか年代物の上下金属床。

「日比野さん、入れ歯、大分使いましたね」と言うとう、つむいたまま小さな声で

「はぁ」

それ以上の言葉はなかった。さっそく上顎の義歯を装着してみると、ゆるいことは確かだけど、何とか落ちずに着いている。上を取り出し、下を装着してみると、どこに収めていいのかわからないくらい不適合になっている。そこでティッシュコンディショナーを取り出し、上顎は少し柔らかめ、下顎はとにかく硬めに練って大量に盛り上げ、口腔内に挿入した。硬化したところで取り出してみると、下顎はかなりの厚みになってしまったが、装着時に安定するようになった。まずはこれを使って、不具合は次回調整することを伝えた。

2回目に訪問した時、彰さんが真っ先に玄関まで迎えに来てくれた。

「先生、ごめんなさい、まだ食事中なんですよ。どうしましょう」

「それは良かった。ぜひ拝見させてください」

「そうですか。いいんですか?それでしたらどうぞ」

「ところで入れ歯の調子はどうですか」

するとそばにいた女性が、

「お姉さん、すごく食べるようになったんですよ」

さっそくリビングに行くと、貞子さんは椅子に深く腰掛け、足元に電話帳を置き食事の真っ最中。鼻には酸素吸入用チューブが入っているものの、右手にはスプーン、食卓にはカレーとサラダが並んでいる。貞子さんの横に座り、じっと見ていてもスプーンのペースは変わらない。僕が横に来たことに気付いていないかのように、お皿からカレーを取り、うつむき加減ながら口に入れていく。唇でしっかり取り、スプーンを引き抜く。それからしっかり咀嚼してゆっくりゴックン。多少飲み込みづらいのか、ひと口を2回くらいに分けて飲み込んでいる。

彰さんに、「酸素はどうなんですか?」とたずねると、

「普段は毎分2リッターなんですが、食事中は3リッターにしてるんです」

「食事の後、息苦しくなりませんか?」

「大丈夫です」

すると貞子さんの妹さんが、

「でもすごいわねぇ。入れ歯を入れると、こんなに食べられるようになるのねぇ。本当にびっくりしたわ。最近ではほとんど私たちと同じもの食べているんですよ」

「本当ですか。すごいですねぇ。1回のお食事は何分くらいですか?」

「30分くらいかしら。もっと早い時もあるんですよ。」

「それならいいですね。長くかかりすぎると飲み込みの事故が起こりやすいので注意してくださいね」

「分かりました」

そんな会話を聞いて、知ってか知らずか、貞子さんは最後のひと口をそっと口に入れた。

風のいざない 第7話 「演技派?」      五島朋幸(新宿区)

初診の澤田キミ子さん。息子さんご家族と同居されている。ケアマネージャーからキミ子さんは認知症で口を開けてくれず、ケアをしようとすると噛みついたりするので大変だけれど、ぜひ、口腔ケアをやってほしいと依頼があった。

「さあ、頑張るぞ!」

と威勢よくいきたいところだが、自然とため息が。

澤田さんのお宅に到着し、ドアベルを押すと、明るい声でお嫁さんの美佐子さんが出迎えてくれた。嫌な緊張感から少し解放される。

「こんにちは、訪問歯科です」

「こちらこそお世話になります」

と普通に話をしていたのだが、突然、美佐子さんが小声になり、

「すいません、今日もちょっと機嫌が悪いみたいで…」

と困った顔をした。もちろんここまで来て引き下がることはできない。笑顔で、

「大丈夫ですよ、僕は」

と笑顔を見せて玄関に入った。不安は最高潮。

お部屋に入ると、ベッドの上で小さく丸まったキミ子さん。僕はキミ子さんの肩にそっと手を置き、

「こんにちは、澤田さん。はじめまして。歯医者です」

と、満面の笑顔を見せたが、キミ子さんは目も開けず、微動だにしない。

仕方なく、意思疎通もないまま口腔ケアに移ることにした。最初は頬のマッサージと思い、両手でキミ子さんの頬を触ったとたん、「ワウッ」という激しく大きなうなり声。あまりの声に一瞬ドキッとした。

「澤田さん、ちょっとお口をあけてみてくださいね」

と、声をかけながら指で唇を開け、少し中を見てみると、多少の欠損はあるものの残存歯は多かった。いや、縁上歯石も歯列に参加している感じもした。改めて懐中電灯を当てて観察しようとすると再びうなり声をあげ、顔を胸元に埋めるように丸まってしまった。後ろで見ていた美佐子さんも申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ている。

僕はバッグからプラスチック製の指サックを取り出し、左手の人差し指にはめ、右手に歯ブラシを持った。ベッドの頭のほうに立ち、丸まっているキミ子さんの頭を少し上に向かせるようにすると、歯ブラシをキミ子さんの右側の頬にそっと挿入した。すると、これまで単発に叫んでいたのだが、今度は「アァ~」と大きな声を発した。その瞬間、左手の指サックをキミ子さんの左側臼歯部に挿入。左手の人差し指は臼歯部に、残りの指は大きく広げて顔が動かないように固定し、ブラッシングを開始。途中、少し抵抗されることもあったが、基本的にはスムーズにケアは終了。

美佐子さんにはケアを継続的に行うこと、ご家族にできるような方法も考えていくこと、そしていずれ歯石も除去することを伝えて終了。次回のアポイントをとるため、美佐子さんが手帳を取りに奥の部屋に行かれた。残された僕は、目を閉じて再び丸まっているキミ子さんに、「お疲れ様でした。今日は終わりですよ。大変でしたね」

と声をかけると、キミ子さんの目がゆっくりと開き、まぶしい表情でこちらを凝視している。

「わかっていたんですね。意地悪だなぁ」

と声をかけると、再び目を閉じ丸まってしまった。

風のいざない 第6話 「私の主治医」     五島朋幸(新宿区)   

鈴木玉さんは義歯の調子が悪く訪問依頼があった方だった。ひとり人暮らしでリビングには玉さん専用のソファーがあり、そのソファーから手に届く範囲でいろいろなものが置いてある。テレビのリモコン、ティッシュ、急須、ポット、お茶の葉っぱなどなど。僕が訪問する時にはすぐに診療ができるように椅子までセッティングしてある。

「こんにちは。鈴木さん、歯医者です!」と声をかけ、いつものように引き戸を開けようとすると、中から勢いよく開けられた。

「はじめまして、娘の吉江でございます。先生にはいつもお世話になっています」

今日は遠方よりお母様の様子を見にこられたようだ。さっそくいつものように診療開始。

「先生、痛くなくなって大分噛めるようになったわ。先生ありがとうございます」

「それはすごいですね。今日は噛み合わせのチェックをしてあとは様子をみましょう」

         *

ひと通りの診療が終わり、器具をカバンにしまっていると吉江さんが、

「本当にありがとうございます。ひとりで歯医者も行けないし、あきらめていたんですよ。失礼ですけど、こういうシステムは昔からあったんですか?」

「そうですね。地域差はあると思うんですが、昔からあるんですよ」

「まったく知らなかったわ。多くの歯医者さんがやられているんですか」

「たしかに、メジャーにやられているとは言えませんねぇ。歯医者にとっても気軽にできるというものでもないんですよ。診療室は外来診療の時間が決まっているので、休憩時間や休診日を使って訪問診療されている方が多いんじゃないでしょうか。それだって難しいんですよ。例えば木曜日が休診日だからその日に訪問診療をしますと言っても、利用する方が『その日は病院に行く日ですからだめです』と言われたら終わりだし。なかなか生半可なことではできないんですよ」

「そうですか、なかなか難しいんですね。多くの方がやってくださるといいんですけど」

「歯科医院によっては訪問診療部のような形で訪問診療だけやるようなシステムを作ったりすることがあるんです。それはそれで貴重なんですが、僕は外来診療もやって、訪問診療もやるというのが本来の歯医者の姿だと思うんですよ。外来と訪問診療でお互いにいろんなことがフィードバックできるし」

「先生、私は千葉なんですけどそこまでは来て下さらないでしょう。私はどうしよう」

「そんな先のことですか!それは気の長い話ですね」

と言うと3人大笑い。それまで黙って聞いていた鈴木さんが、

「私はいいの。先生がいるもの」

「お母さんはいいわね!うらやましい」

再び大笑い。

風のいざない 第5話  「笑う門には」      五島朋幸(新宿区)

白田マサさんは、娘の坂口玲子さん一家と同居している。マサさんは92歳。膝が悪く、歩きには難はあるものの内臓に大きな問題はなく、基本的に元気なはずだ。しかし…。

マサさんたちの住む高級マンション到着し、玄関先のインターホンを鳴らす。いつもように少しだみ声で威勢のいい玲子さんの声で返事があった。マンション入り口のドアが自動的に開き、坂口家の部屋に向かう。部屋の前に玲子さんがドアを開けて待っていてくださった。「どうですか?」と尋ねると、玲子さんは苦笑いしながら少し首を振り、

「まあ、いつもの通り」

マサさんの部屋に入ると、

「白田さん、こんにちは。いかがですか、調子は?」

とハイテンションに声をかける。しかし、座椅子に座っていたマサさんは、いかにもつらそうな顔をしてこちらに視線を投げかけ、

「だめ、全然だめ。目も耳もだめ。歯も全然だめ」

そういって視線をまた下に降ろした。それから念仏のように

「長く生きてたって、良いことなんてなんもない」

とつぶやいた。

以前は快活な方だったらしいが、ここ数年はこんな調子らしい。玲子さんが、目や耳は難しいかもしれないけど、歯が良くなって食欲が出ると少しは変わるかもしれないと思って僕を呼んでくれたのだ。しかし、初診から3カ月、今のところ大した成果を挙げられていない。

いつものように、総義歯の調整を始める。玲子さんも僕の脇に座って声をかけながら見ていてくれる。外形の調整から噛み合わせの調整。毎回感じるのだが、痛みはいろいろ訴えるものの、顎の動き、噛む力は年齢を感じさせない能力がある。転機があれば、絶対使えるようになると思いながらの調整。

一応、歯医者としてできることを終えた時、玲子さんが、

「お母さん、目も耳も口もだめなんじゃあ、ヘレン・ケラーみたいね」

するとマサさんがすぐに、

「悪口ばっかり言ってんじゃないわよ」

「聞こえてるじゃないの!」

「悪口だけはよく聞こえるのよ!」

と言うと3人大爆笑。マサさんの笑い顔もはじめて見た。

     ※

その次に訪問した時、玄関先でいつものように僕を迎えてくれた玲子さんが、満面の笑みで指ではOKサイン。ちょっと意外で「どうですか」と尋ねると、「何だかんだ文句言いながら少し食べるようになったのよ。でも先生、きっと大変よ」

といたずらっぽく笑った。

マサさんの部屋にいつものように入ると、右手を大きく上げて、

「あぁ、先生、こっちこっち」

と言って何と笑顔で座布団をすすめてくれた。しかし、

「入れ歯が痛くて痛くて…」

まだまだ僕の苦難も続きそうだ。

風のいざない 第4話  「ステップアップ」      五島朋幸(新宿区)

ドアホンを鳴らすと、待ってましたかのごとく

「先生、お待ちしていましたよ」

と、家の中から元気な声が。ドアを開けると満面の笑顔で現れた久喜元幸子さん。まだ四十歳代の幸子さんは母親の田辺敏子さんと同居している。

この親子と初めてお会いしたのは、今から半年前。久喜元さんのお宅を訪間した時、福岡でひとり暮らしをしていた敏子さんを引き取ったばかりだった。リビングの横にある小さな和室でお会いした敏子さんは、青い顔でベッドに横たわり、煩は不健康にこけていた。僕たちにとって決して珍しい光景ではないが、まだ七十歳代前半には見えなかった。幸子さんは、

「福岡では、ぜんぜん食べていなかったらしいんです。昔はこの人、太ってたんですよ。昔使っていた入れ歯もあるんですけど…。全然入らないし」

眉間にしわを寄せて話す言葉に、僕までため息が出てしまった。物音もしない空気の中、さっそく敏子さんのお口を拝見。プラークを身にまとった歯が上下3本ずつ。そのうち2本は不自然に傾斜し、動揺もしていた。舌も真っ白で、口全体にピンク色を感じない。

「お母様は、普段どうやって栄養をとっているんですか?」

何か僕が悪いことを聞いたかのように、幸子さんは少し不満顔になり、

「ヨーグルトとか栄養ドリンクしか飲めないんですよ。食べられないんですから、しょうがないじゃないでずか」

怒りの矛先は完全に僕のほうに向いていた。こちらもちょっと面白くない。気持ちは分かるけど。

呼吸を整え、残す歯、抜く歯を判断し、悪い歯は早く抜き、残す歯を清潔に保つこと、そして早く入れ歯を作ることなどを説明していった。幸子さんの表情から、ようやく軽い笑顔が出てきた。眉間のしわは少し残して。

その後、敏子さんの治療は順調に進み、初診から3カ月後、上下に新しい義歯が入った。調整も無事に終了し、3カ月に1度の訪問へと移行した。

       *

幸子さんと一緒に奥のリビングに入る。そこには、3カ月前とは別人のように健康的でふくよかな敏子さんが腰掛けている。

「お母様!太ったんじゃないですか」

「そうよぉ、このあたり、これだもの」と言っておなかをつまむ。

「最近なんでも食べるのはいいんだけど、リハビリの先生にも食べ過ぎだって怒られるんですよ」

と、笑いながら困った顔の幸子さん。

ひと通りの入れ歯チェック後、

「お母さま…」

敏子さんも幸子さんも心配顔で僕のほうを見る。

「訪間はもうこれで終わりです」

思わず幸子さんが、

「先生に定期的に診ていただけると助かるんですけれども…」

と困った顔で僕に訴える。僕はゆっくりと、

「今度は診療室で待ちしています」と言うと、親子が顔を見合わせ、

「そうよねぇ~」

と3人大笑い。

風のいざない 第3話  「大和魂」      五島朋幸(新宿区)

自転車をマンション脇のスペースに止め、3階まで駆け上がる。決して運動不足ではないけれど、これも僕のトレーニング。階段から2軒目に斉藤幸太郎さんの部屋がある。斉藤さんはまもなく90歳でひとり暮らし。肺気腫があるため、鼻からの酸索が欠かせないが、とてもしっかりしておられ、部屋の中は歩いて移動することができる。

ドアフォンを鳴らすと30秒ほどして「カチッ」と鍵を開ける音がする。僕がドアを開けると直立不動、いつものように姿勢良く斉藤さんが立っておられる。僕もいつものように「こんにちは」と頭を下げる。そして、これまたいつものように斉藤さんが満面の笑みになる。

リビングに移動し、小ぶりの食卓に対面して座り、

「斉藤さん、入れ歯の痛みはどうです?」

「えぇ、おかげさまで大分なくなりました。でも少し左下に圧迫感を感じます」

「分かりました。今日も噛み合わせの調整からしていきましょう」

そう言って、僕は診療バッグから調整道具を取り出した。

ひと通りの診療が終わり、手を洗ってリビングに戻ってくると、前にはなかった古びた写真が後ろのカラーボックスの上に飾ってある。セピア色で端は少し破れた写真だが、そこには戦艦が写っていた。確か斉藤さんは海軍にいたと聞いたことがある。

「斉藤さん、これは昔、斉藤さんが乗られていた戦艦ですか」

「はぁ、そうです。大和です」

「えぇ!斉藤さん、大和に乗られていたんですか?戦艦大和ですか。すごいですねぇ」

でも、斉藤さんの表情はまったく変わらなかった。僕のほうは勝手に興奮し、

「僕たちの世代なんて、大和は宇宙に飛び出して行っちゃいましたよ、ハッハッハッ。最近では大和の映画も作られているんですよ。斉藤さん役の人も出てるんじゃないですか」

そんなミーハーな空気も斉藤さんには心地よくなかったらしい。雰囲気を察知した僕はフェードアウト気味に、

「すごいなぁ、歴史の生き証人ですね、斉藤さんは」

という言葉でくくった。すると斉藤さんがゆっくり顔を上げ、年齢を感じさせない鋭い目で正面の僕を凝視し、はっきり、ゆっくりと、

「戦争なんてやってはいけません」

そして静寂。斉藤さんにいつもの微笑が戻った。充分すぎる言葉だった。

それから2カ月後、ケアマネの野村さんから斉藤さんが亡くなったという報告を受けた。頭の中でひとつのフレーズが流れ続ける。

「戦争なんてやってはいけません」。

ひとつの歴史が終わった。

そして、ひとつの教訓がこの世に残った。

風のいざない 第2話  「孫の力」      五島朋幸(新宿区)

到着したのは閑静な住宅街に立つ一戸建て。決して新しくはないけどしっかりとした造り。呼び鈴を鳴らすと、重そうな扉がきしんだ音をたてて開き、その重厚感とは似つかわしくない明る<高い声で、

「先生、どうも。遠い所をいつもありがとうございます」。

声の主は立野卓子さん。いつもの満面の笑み。

「さあさあ、どうぞ中へ中へ」。

と通される。ここまではデジャヴのごとく。ここからが少し違う。いつもよりいたずらっぽい目をしてこちらを振り返り、

「今日はできましたの?」

僕は声も出さずにニヤッ。

いつものように寝室に通されると、電動ベッドにはご主人の立野真さん。脳梗塞で右半身に麻痺はあるが、ふくよかで赤味のさしたお顔はいつも笑顔だ。立野さんの下顎は天然歯列があるのだが、上顎は残っていた7本全部の歯冠が折れてしまっている。そこに今日、オーバーデンチャーが入るのだ。真さんも開ロ一番、

「できましたかな」

「はい、持ってきましたよ。どうですかねぇ」

と、こちらももったいぶって少しスローモーションでじらす。バックに入っていた義歯を取り出すと、ご夫婦の視線が突き刺さる。期せずして、ふたりの口から「おっ」と声が漏れる。ふたりが準備を終えると、さっそく義歯を真さんの上顎に装着してみる。残根があり、骨ばった顎堤には慎重に入れていくが、意外とすんなり装着できた。しかし、これまで上顎前歯がなかったせいで、義歯が入ると口唇が突っ張る感じがある。「おやっ、前歯を出しすぎちゃったかな」と不安がよぎる。それでも口を閉じてもらうと、さほど不自然に感じない。先手を打って、

「今まで上の前歯がなかったので急に入れ歯が入ると出っ歯に見えるんですよ。でも、すぐに馴染むと思いますよ」

「いえいえ先生、本当にすごいわ。以前の顔に戻りましたよ」。

と、卓子さん。

「そうですか、良かった!緊張の瞬間でしたよ」

僕たちの盛り上がりをよそに、真さん本人はいたって無表情。卓子さんが、棚の上に置いてあった手鏡を真さんに渡すと、一瞬、口元を見てすぐに鏡を返した。まあ、見た目よりも噛めることが大切なのだから仕方がない。噛み合わせの調整も終え、痛みもないことを確認して診療終了。相変わらず笑頻満面の卓子さんは、

「真狸ちゃんが見たら喜ぶわよ。おじいちゃん、すごく若くなったって言われるんじゃないの」。

などと声が聞こえる。僕は洗面台で手を洗い、戻ってみると真さんが先ほど戻した手鏡を無表情にしげしげと見ている。しかし、僕の姿を見ると何もなかったかのように手鏡を卓子さんに戻した。多少は気になるみたい。孫の力は偉大だ。

次回の予約を取り、外に出ると手拭用のタオルを洗面台に忘れてきたのに気づいた。すぐに戻り、「ごめんなさい」と言いながらドアを開けてみると…。卓子さんが大きな鏡台を寝室に移動中だった。

風のいざない 第1話「救いの言葉」     五島 朋幸(新宿区)

都営アパートの下に自転車を置くと器材の入った重いバッグを持つ。

「よっこいしょ」と思わず声が出る。背中にはデイパックをかつぎ、3階まで階段で昇る。都営アパートにはエレベーターのないものも多い。ひと息つくと古びた呼び鈴を鳴らした。

「こんにちは、歯医者です」

「は~い。先生、時間ぴったりね」

と、出てきたのは徳丸和子さん。母親のトキさんとのふたり暮らしだ。

いつものように隅々まで整理整頓されている部屋の中に入る。6畳の部屋の真ん中に電動ベッドが置いてあり、トキさんが横たわっている。

「お母さん、歯医者の先生来てくださったわよ。お母さんの大好きな歯医者さんよ。よかったわね」

と微笑みながら和子さんが声をかける。しかし、多発性脳梗塞のトキさんがその声に反応することはない。僕も、

「こんにちは、徳丸さん。調子はどうですか。おや、今日は顔色が良いですね」

「まあ、お母さん。先生に褒められたわよ」

上品な和子さんのとても愛くるしい表情に、僕も自然と笑顔になる。

準備を終えると、さっそくトキさんの顔のマッサージ。決して硬直しているわけではないが、この1年間使われていない口は筋肉の張りを感じない。それでも「動け、動け!」と念じながら手を動かす。

頬が少し赤みを増した時、ゆっくりとトキさんの目が開いたが、すぐに閉じてしまった。首から肩にかけてのマッサージも終えると、粘膜用ブラシで口腔ケア。傷つけないように丁寧にブラッシングをする。

約15分の口腔ケアが終わる間際、和子さんがお茶を持ってきてくださった。

「先生、いつもありありがとうございます」

この半年間、月2回のペースでこの口腔ケアが続いている。しかし、トキさんには何の反応もない。この口腔ケアに本当に意味があるのか、僕にも疑問であるが、和子さんの笑顔に救われる。

それから2週間ほどたったある日、和子さんから診療室に電話があった。

「先生、昨日の朝、母が亡くなりました。長い間ありがとうございました」

いつものような明るい声ではなく、すべてを抑さえ込んだ冷静な低い声。少しの間が空き、「先生、母が亡くなる前の晩、『ありがとう』って言ったのよ。あの母が。何年も声を出したことがなかったのに。私の介護してきた2年間がすべて救われました。先生の口腔ケアのおかげよ。本当に、ありがとうございました」

最後は涙をこらえきれなかったようだ。

電話を切った僕は、ほっとため息をついた。僕の半年間も救われた。

理事会がレセプトオンライン請求義務化撤回で声明

2011年4月より歯科医院からのレセプト請求もオンラインに義務化されようとしている。


国は歯科医師の請求権、職業の自由にかかわる問題を法改定もせず、一片の省令で奪おうとしている。東京歯科保険医協会はオンライン請求一律義務化を撤回することを要求する。


協会のアンケート調査では、一律義務化反対は八割を超えており、義務化を機に閉院をすると答える方が出ている。歯科医院はほとんどが小規模な事業所であ る。義務化が実施されれば新規購入で約300万円かかるといわれる諸費用はすべて医療機関の負担となる。そうした負担増により今でも厳しい歯科医院経営は さらに圧迫され、廃業を余儀なくされる開業医が続出することが危惧される。


さらに「住基ネット」でさえ個人情報の漏洩に関わる訴訟が起こされているが、情報量が住基ネットの数十倍、数百倍であるオンライン請求で患者さんの医療情報が漏洩されれば、その影響は計り知れないものとなる。
政府はオンライン請求で集めたデータの他、特定健診のデータなどを盛り込んだ、「ナショナルデーターベース」を構築しようとしている。「請求方法」にすぎないオンライン化を「医療データの活用方法」にすり替え、いっそうの医療費抑制を狙っている。

1500人の医師、歯科医師が一月、オンライン請求義務化に従う義務が存在しないことを確認する訴訟を起こした。協会はレセプトオンライン請求義務化に 対し訴訟支援や国会議員への要請などを行ってきた。自民党の中にも義務化の実施時期見直しの動きが報道されるなど世論や運動による一定の変化が見られる。 引き続き、義務化撤回への運動を強める決意である。