年別アーカイブ: 2010年

風のいざない 第20話 「歓声」     五島朋幸(新宿区)

訪問看護師の秋元さんから診療室に電話が入った。胃ろうを入れている女性だけれど、ご主人がとても熱心な方で、何とか口から食べさせたいとのこと。「先生しか頼む人いないんだから」とのひと言に安請け合いをしてしまった気もする。

まずは状況確認のために、僕ひとりで訪問することになった。三田梅子さんは何度か脳梗塞を繰り返し、両手はグーを握ったまま抱え込んだ形になっており、ベッド上で左を向いたままになっている。ご主人の春雄さんは白髪だけど、きれいに七三に分け、とてもキッチリされている。部屋も整理整頓されており、そのお人柄がうかがわれた。

「先生、どなたに相談しても、口からは食べられないって言われるんです。でもね、やっぱり少しでも口から食べてもらいたいんです。この人は食べた後、良い顔してたんですよ。もちろん多く食べてもらおうなんてことではないんですよ、ひと口でもいいんです…。ダメでしょうか」。

冷静で情熱的な言葉に、こちらもスイッチが入る。肩、首、頬を触り、ちょっと梅子さんの顔を覗き込んだ瞬間、ドキッ!とした。目が生きている。梅子さんは僕をしっかり見ているのだ。声も出ない、体も動かない状況の中で、しっかりと僕を見ているのだ。実は別の言葉を用意していたが、梅子さんの目にかけてみようと思った。

「ご主人、食べてもらいましょうよ。奥様に食べてもらいましょうよ。口から」

春雄さんは声も出さずに頭を下げた。

2回目の訪問ではいくつかの作戦を考え、歯科衛生士の原田さんと訪問した。梅子さんは自分の歯が多く残っているのだが、なかなか口をあけてもらえない。どうにかして口の中を刺激し、嚥下反射が起きれば、次への突破口となるはず。

梅子さんのベッドサイドに行くと挨拶をし、原田さんに口腔ケアをしてもらう。その様子を観察していたが、どうも先日のようなしっかりとした目ではない。春雄さんも何か気付いたのか、少し不安そうな面持ち。原田さんのケアが終わったところで、嚥下開始用のゼリーをスプーンにとり、口のほうへ近づけるが口は全く開かない。僕も耳元で声をかけたり、春雄さんが足を軽くたたきながら「おい、口を開けなさいよ」などと声掛けしてくださるも、反応はない。皮肉にもスプーンを置いてどうしようかと思ったときに大あくび。一同落胆。何とか口の中に入ってほしい。

次の作戦は、大きめのシリンジの先にゴムチューブを取り付け、補水液のゼリー状になったものを挿入していくというもの。偶然、梅子さんの右上の奥歯が2本欠損しており、ゴムチューブがそこから入るのだ。その隙間からチューブを押し入れ、左手でチューブを固定し、右手でゆっくり押し出してみる。3ミリリットル。チューブを引き抜く。1秒、2秒、3秒。反応がない。吸引しようかと思った瞬間、ゆっくりと口がもぐもぐし始めた。みんなが息を止める。その瞬間、大きな音でゴクリッ!3人タイミングを計ったように

「お~っ!」

と歓声が起きる。春雄さんが、

「先生、今のは飲めたんですよね。飲んだんですよね」

僕は大きくうなずいた。春雄さんも大きくうなずいた。少しだけ涙を浮かべて。

梅子さんは…どこ吹く風。少し自慢げに見えた。

風のいざない 第19話 「 入れ歯をつかう体」      五島朋幸(新宿区)

紹介をしてくれたのはケアマネジャーだった。腎臓の病気で入院していて退院してきたが、痩せてしまったせいか、入れ歯が合わなくなっているのでみてほしいという依頼だった。

夏のある日、吉田一郎さんのところへ初めて訪問した。呼び鈴を押して出てこられたのは奥さまのヨシ子さん。小柄で品のある方だった。

「このたびは無理をいいまして申しわけありません」

と丁寧なご挨拶。さっそく通された部屋の電動ベッド上に一郎さんは寝ていた。顔色はお世辞にも良いとはいえないが、骨太でがっちりとした体形で、ヨシ子さんとは対照的だった。

「こんにちは、歯医者です。吉田さん、調子はいかがですか」

「えぇ、まあまあです」

とはいうものの、声は小さくしわがれていた。ベッドサイドには総入れ歯が上下で置かれていた。こちらも準備を整え、さっそく現状の義歯を口の中に入れてみた。顎の土手は太くてしっかりとしているのだが、上下とも吸着感はどこにもない。

「吉田さん、お痩せになったんですねぇ。入れ歯のほうを直していきますからね」

といって上下リベースを行った。この顎の土手をもってすれば、かなりしっかりするだろうと楽観していたのだが、リベース後の吸着感もいまひとつ。ちょっと落胆しながらまずは使用してもらうようお願いをした。

次に訪問した時、玄関先でヨシ子さんに

「どうですか、入れ歯のほう」

とたずねてみるが、

「えぇ、まぁ、そうですねぇ」

とうかない返事。一郎さんのところへ行き、同じように聞いてみても

「そうですねぇ」

と小さな声。とはいえ、義歯のチェックをしても決して悪いところはない。ただ、吸着がなく、安定感がない。ためしに、上下の入れ歯を入れた状態で、僕の両手の人差し指を臼歯部に入れ、思いっきり噛んでもらった…。予想通り。痛みすら感じない。そこでご夫婦に、

「入れ歯っていうのはただの道具ではないので、使いこなすだけの機能がないとだめなんです。吉田さんは入院中から入れ歯を外していたので、入れ歯を使いこなす機能が落ちてきているようです。歯科衛生士さんにお願いして、お口のリハビリもやっていきましょう。それに合わせて僕も入れ歯の調整をしていきます」

と伝えた。僕はその場で歯科衛生士の原田さんに電話をして吉田さんのアポイントを取ってもらった。

2ヵ月後のある日、久々に吉田さんのお宅を訪問した。呼び鈴を鳴らすとヨシ子さんが満面の笑みで出てこられた。

「ご無沙汰しております。吉田さん、いかがですか?」

するとヨシ子さんがいたずらっぽい顔をして

「とにかく見てくださいよ」

部屋に行くと、とにかく顔色が良く、満面の笑みをした一郎さんがVサイン。

「すごいじゃないですか、どうしたんですか」

と聞くと、ふたりとも話したがった空気をヨシ子さんが制し、

「原田さんが良くしてくれてねぇ。とにかく食べられるようになったんですよ。食べられるようになったら入れ歯も安定してねぇ。今では何でも食べられるんですよ」

すげぇ~と思っている僕がしゃべる前に再びヨシ子さん。

「入れ歯って、形だけ良くすれば使えるんだと思ってましたけど違うんですねぇ。使える体があって、初めてうまく使えるんですねぇ」

それ以上、僕がいう言葉はなかった。

風のいざない 第18話 「ピンチを救う人」     五島朋幸(新宿区)

久田一男さん82歳は8年前からパーキンソン病で寝たきりである。奥さんは早くに亡くなられているので、ひとり息子の友一さんが介護をしている。とはいえ、友一さんも仕事があるため、日中はヘルパーさんにより生活が支えられている。僕たちがかかわったのは3年前から。残存する歯が多い一男さんの口腔ケアが目的である。定期的には歯科衛生士の原田さんがケアに入り、僕は3カ月に1度チェックに入り、継続したケアを行っている。

夏のある日、原田さんが慌てたように僕に報告をしてきた。

「先生、久田さん、大変です!最近すごく痩せられたんです。全然食べられてないみたいです。早めに診てください」

進行性の病気とはいえ、前回診察した時はお元気そうだっただけに、少し意外な報告だった。そこで、次回の原田さんの訪問に合わせて、僕も訪問するようアポイントをとった。

久田さんのお宅にうかがうと、いつものように友一さんが仕事を抜け出し、僕たちを笑顔で迎えてくれた。通された部屋には、顔色が悪く、骨格が浮き出た顔になってしまった一男さん。さすがに言葉が出ず、友一さんの顔をうかがうと先ほどの笑顔はまったく残っていなかった。

「友一さん、最近お父様はどれぐらい食べられているんですか?」

「私は昼間いないので分からないのですが、ヘルパーの方はいつものように食べているっていうんですけど…」

原田さんの顔は明らかに「全然ですよ!」と訴えていた。とりあえず、いつも一男さんが食べているという「舌でつぶせるレベル」のサンプル食品を原田さんに用意してもらった。さっそく態勢を固め、一男さんに声掛けして食べていただく。目を開け口を開けてくれたのでティースプーンに軽く食品を盛り口腔内に入れていく。軽くもぐもぐする仕草はあったが、そこで終ってしまった。もちろん、口の中から少しも減っていなかった。あまりの状況に困惑していた時、原田さんが、

「水沼さんにみてもらいましょうか」

水沼さんは僕たちの地区で活躍する管理栄養士で僕たちとも親しい。友一さんに水沼さんの話をして、一緒にみてもらうことにした。

1週間後、水沼さん、原田さん、そして僕の3人で訪問することとなった。水沼さんにはこれまでの経緯などを話しておいた。さっそく、一男さんのベッドサイドに行くと水沼さんは上腕の太さなどを計測し、体重や現在の食事状況などを友一さんに聞いた。

「今の話から考えると、500キロカロリーも摂れてないかもしれませんね。もう少しお口からスムーズに栄養を摂れる方法を考えてみましょう」

そういうと、カバンから哺乳瓶の先にストローが付いたようなボトルを取り出し、サンプルで持ってきた嚥下食を入れた。一男さんのベッドをゆっくり起こし、約45度くらいまで上げ、両脇にバスタオルを押しこみ、体を安定させた。ゆっくりストローを口の中に入れると、ボトルの脇を軽く押した。ストローを通して嚥下食が口の中に入っていく。すると、一男さんが力強く「ゴクッ」。期せずして全員から「おぉ~」と声が漏れた。

「こういう方法でゆっくり食べてもらいましょう。まずは栄養を摂ってもらうところからですね」

一同大きくうなずいた。

風のいざない 第17話  「笑顔が素敵」     五島朋幸(新宿)

訪問看護師の秋田さんから訪問診療の依頼書が送られてきた。きっちりとしたタイプの秋田さんらしく、すべての項目にもれなく、きっちりとした楷書で書かれている。ただ、右下に余白の部分に少女のような字で「先生よろしく」と意味深な言葉が。

紹介された水田ヨシ子さん87歳は、認知症が進行しているとのこと。入れ歯の調子が悪いとのことで依頼を受けたが、認知症と入れ歯の調整。なかなか相反する関係である。水田さんのお宅は都営アパートで、娘さんとふたり暮らし。さっそく呼び鈴を鳴らし、

「こんにちは、訪問歯科です」

と声をかける。すると少し焦った感じで娘の友子さんが出てこられた。こちらはあいさつするが、あまり僕の目を見ることもなく「さっ、どうぞ」と奥の部屋に通された。

電動ベッドで僕たちに背を向けるように横になっている水田さん。軽く肩に手をやり、あいさつをすると、ゆっくりとこちらの方に向き直り、眉間にしわを寄せ、

「なんだ~、この野郎!」

とドスの利いた声。ファーストインプレッションとしては最悪。まあ、何もなかったように、

「水田さん、入れ歯の調子はどうですか?入れ歯の調整をしに来ましたよ」

「なに~?何いってんだよ」

この埒のあかない状況にすまなさそうに友子さんが、

「いつも下の歯を外しちゃうんです。多分、左側だと思うんですけど、いつも触ってるんですよ」

というヒントをくれた。それではと思って

「水田さん、入れ歯を外していただいていいですか?」

と言っても反応はない。やむなく口に手を入れて外そうとすると

「何するんだ、このやろ~っ!」

と言われても、プロの技で上下の総入れ歯をすばやく取り出した。入れ歯を取られた水田さんは、何もなかったようにしょんぼりしている。下の入れ歯は何度か修理を施されており、レジンが段差になったり、一部欠けているようなところもある。

「水田さん、お口の中、拝見しますよ」

と言いながらこちらも身構えたが、何の抵抗もなく、いや、とても素直に口を開けていただいた。懐中電灯をあてて見てみると、左側の舌側に1センチほどの傷があった。

「水田さん、痛かったでしょう。結構大きな傷がありますよ。我慢していたんですね」

「そうなんですか、傷があったんですか」

と友子さん。なにやら期待できそうな展開に、少し笑顔が見える。さっそく傷の部分の調整。再び口腔内に戻してみる。「どうですか」とたずねても口をモグモグ動かすだけで表情に変化はない。

「どうなの、お母さん。痛みはないの?」

するとモグモグしていた口を止め、

「痛くない。痛くないよぉ」

「母さん、良かったじゃない。大丈夫なの」

すると水田さんは僕の方を向き、

「良く出来ました。パチパチパチ。良く出来ました。パチパチパチ。」

友子さんも僕も吹き出してしまった。その雰囲気に水田さん自身にも笑顔が。

「水田さん、笑顔が素敵じゃないですか」

「なに~?何いってんだよ!」

僕たち大爆笑。

風のいざない  第16話 「予感」     五島朋幸(新宿区)

境千恵子さん82歳はパーキンソン病で寝たきり。ひとり暮らしではあるが、5年ほど前からベッドから動けない状態が続いている。わずかに動く手足を利用しながらテレビを見たり、電気をつけたり。たまに娘さんが様子を見に来られるが、基本的には訪問看護師さんやヘルパーさんの手を借りて生活をしている。寝たきりになった直後から口腔ケアの依頼があり、月に2回訪問している。

呼び鈴を鳴らすとドアを開け、

「こんにちは、歯医者です」

と室内に向かって声をかける。いつものように小さな声で「は~い」という境さんの声がする。玄関に入るとキッチンの向こうの部屋に電動ベッド。ギャッジアップしている境さんと目が合う。また小さい声で「どうぞ~」。

境さんは臼歯部にいくつかブリッジがあるものの、多くの歯が残っていた。しかし、体調の変化とともに歯冠が折れていき、今では数本の歯冠を残すのみで、多くが残根になってしまっている。とはいえ、開口もままならないので義歯を装着することもできず、そのままになっている。

「境さん、こんにちは。調子はいかがですか」

「先生ね、パーキンソン病ってだめねえ…。体がぜんぜん動かなくなったのぉ…」

とゆっくりゆっくり言葉を吐き出される。いつもの言葉ではあるが僕から返す言葉もない。

「先生ね、頼みたいんだけど…」

「何ですか」

「体が下にずり落ちちゃって痛いの。直してくれる?」

僕は境さんの頭の方へ行き、両脇を抱えるようにしてゆっくりとベッドの上方へ引き上げた。それから枕の位置を直し、布団を胸元までかけて整えた。

「大丈夫ですか。痛くないですか」

「うん、ありがとう。悪いねぇ…。先生にこんなことさせちゃって。こんなことさせる患者なんていないでしょ」

「何言ってるんですか境さん。こんなのお安い御用ですよ!」

僕はいつものように口腔ケアの準備をする。洗面所にある歯ブラシ、歯間ブラシ、コップ、タオル、そして洗面器を持ってベッドサイドに戻る。少しギャッジアップしてタオルを胸元に置き、歯ブラシでブラッシング。境さんは目を閉じている。一通り終わったところでさらにギャッジアップ。口元にコップを近づけ、ゆっくりゆっくり口の中に水を注ぎ込む。今度は洗面器を首元に近づけると、境さんがゆっくり水を吐き出す。

「境さん、今日のホームヘルパーさんは歯ブラシうまい人だったでしょう。かなりきれいになっていましたよ」

「そう。分かる?今日の人はベテランですごくうまいのよ」

今度は歯間ブラシをかけ、再びうがいをしてもらう。最後は胸元のタオルでお口の周りを拭き、ブラシ類を洗面所に戻して終了。これまで百回近くやってきた口腔ケアだ。

「また2週間後に来ますね。次回は…」

といってアポイントをとる。荷物をまとめると境さんの肩に手を当て、

「どうもお疲れさまでした。また来ますからね」

とご挨拶をして帰ろうとすると、

「先生…、ありがとう…。これまで…」

いつもとは違う言葉にドキッとはしたが、そんなに気にすることなく家を後にした。

1週間後、訪問看護師から連絡が入った。境さんが天寿を全うされたと。

風のいざない 第15話  「手品師」      五島朋幸(新宿区)

尾崎コウさんはご主人の豊太郎さんとのふたり暮らし。コウさんは認知症で、上下の総義歯を時々大事にしまいこんでしまう。そのたびに豊太郎さんが捜索隊となって発見してきたのだが、今回ばかりは見つからない。自宅にいるか、デイサービスに行くかのシンプルな行動範囲の中ではあるが、残念ながら見つからず新たに作ることになってしまった。

初診の日、尾崎さん宅を訪問すると、小柄で少し腰の曲がった豊太郎さんがドアを開けてくれた。「どうぞ、どうぞ」

と、とても人のよさそうな笑顔で僕をリビングに案内してくれた。小さなコタツにはちょこんと座るコウさん。豊太郎さんよりもさらに小柄な体で、背を丸くして小さくなっている。

「おい、お前、歯医者さんが来てくれたぞ」

という声に、僕を不思議そうな目をして見る。少なくとも歓待されている雰囲気はない。

「こんにちは、尾崎さん。歯医者です」

とご挨拶。

「おい、歯医者さんが来てくれたんだぞ。お前が入れ歯をなくしちゃったから」

すると表情が曇り、不機嫌そうな表情へと変わった。

豊太郎さんには義歯は製作していくけれども、認知症の方では噛み合わせを記録することが難しく、調整も難しいので、少し時間がかかるかもしれないことを伝え、了承してもらった。

さて、義歯装着の日。いつものように豊太郎さんに先導されてコウさんのところへ。

「尾崎さん、できましたよ。新しい義歯持ってきました」

と声をかけるが、コウさんはポケッとした顔。変わりに豊太郎さんが興味津々な顔で僕のカバンを覗き込む。僕がカバンから義歯を取り出すと、豊太郎さんが

「ほぉ、きれいにできましたなぁ。おい、お前、きれいな歯ができたよ」

その声に、コウさんの表情が少しだけゆるむ。

さっそく口腔内に装着してみる。まずは上顎。吸着はまずまず。そして下顎。意外にもすんなり入った。豊太郎さんから、

「おっ、良いじゃないか。元の顔に戻ったよ」

僕もコウさんの歯の入った表情は初めて見たが、かなり若返る。

「尾崎さん、どうですか。久しぶりに歯が入った気分は」

と笑顔でたずねると、白い歯を見せてニヤ~ッと笑顔を見せた。期せずして3人大笑い。

ただ、問題はここからである。咬合紙を口腔内に挿入し、「はい、カチカチ噛んででください」とお願いしても動かしてはくれない。やむを得ず、コウさんの背中側に回り、後頭部を僕の胸につけ、後ろからオトガイ部を持ち、咬合位に誘導する。最初は力の入っていたコウさんであるが、徐々に慣れてきたのか、こちらが余り力を入れなくても誘導できるようになった。カチカチカチというリズミカルな音に、豊太郎さんも関心があるようだ。

「先生、面白いですな」

何度か調整し、まずまずの噛み合わせができるようになったところで終了。これから使ってもらい、調子悪いところを調整していくことを伝えた。

片づけをしていると豊太郎さんが、

「先生は手品師のようですな」

とポツリ。僕は意味も分からずポカンとしていると、

「僕があんなにカチカチやっちゃうと、こいつに指を噛まれちゃいますよ。あんなことさせるのは先生だけですよ」

「そうですかぁ」なんて答えているとコウさんもこちらを見ている。白い歯がまぶしい満面の笑みで。

保険医療機関にさらなる税負担を強いる消費税増税法案採決に反対する理事会声明

公約を破り採決をする前に、国民に信を問え


 民主党、自民党、公明党は消費税増税案を含む「社会保障・税一体改革」関連7法案の修正協議を始めた。増税案は復興に苦しむ被災地も含めた全ての国民に 負担を強いるばかりか、現状でも厳しい保険医療機関の経営にさらなる大打撃を与えるものであり、東京歯科保険医協会は断固反対する。
 歯科医院が仕入れや賃料、設備投資などで負担している消費税は、最終消費者である患者さんに負担をお願いすることが出来ず、医療機関が身銭を切って負担 し、損税となっているのが現状である。このような損税は税率5%でも1医院あたり年間52万円(協会試算)にもなっており、医院経営に重くのしかかってい る。このような現状に対し中医協でも論議されているが国会では、小宮山厚労大臣が「(医療機関に払う)診療報酬で措置している」と厚労省の従来の見解どお りの答弁を繰り返している。
 10%になった後もさらなる引き上げが予定されていることや、福祉目的税化は法案には盛り込まれていないこと、厳しい経済状況の中では中小企業は消費税の転嫁が出来ないことなど、政府がこれまで言ってきたことの矛盾がこの間の国会審議で次々と明らかになってきた。
 しかし、野田首相は、中央公聴会の開催を決定し、法案の修正協議に入った。成立の目安としていた審議時間100時間まで後わずかのところにまで来ており、会期中での採決強行を目指している。
 大手新聞社が行った世論調査でも国民の7割が法案採決に反対の意思を示す等、政府・与党への批判が強まっている。社会保障改革といういちばん大事な公約を反古にし、採決するならその前に信を問うべきである。
 欧州危機に伴う超円高、金融不安による日本経済への影響が心配されており、東日本大震災と福島第1原発事故の復興対策もこれからが大事な時である。やる べきことをやらずに消費税増税の話などありえない。消費税先食いとなる今国会での法案採決には断固反対を表明するものである。

風のいざない 第14話  「気象予報士」      五島朋幸(新宿区)

伊藤かずさんはご主人を亡くしてからひとり暮らし。大きな病気はこれまでなかったのだが、膝の調子が悪く、ひとりで外出はできなくなっている。ご本人はいたって元気なのだが、週2回行くデイサービス以外は家の中だ。

「こんにちは、伊藤さん、歯医者で~す!」

と声をかけると、いつものように奥の襖がすぐに開いた。

「はいはい、どうぞ」

と声はするが、姿は見せない。ベッドからゆっくり起き上がっているのだろう。慣れたもので「では入りますよ」と言いながら部屋に向かう。

伊藤さんは残存歯も多かったのだが、歯頚部で折れてしまい、数本を残して残根状態になってしまった。本人は「こんなに歯が悪くなってたんじゃぁ全部抜かないと駄目かしらねぇ」などと言っていた。しかし、痛みも出ていないし、まずは噛める状態を作る目的で残根上の義歯を製作し、今日装着することになっている。

部屋に入るとまさに上半身を起こし、ベッドサイドに座ったところだった。少し寝ぐせのついた髪型で眩しそうに僕の方を見て、開口一番、

「出来た?」

「はいはい、出来てますよ。どうですかねぇ」

と、こちらももったいぶって答える。しかし、これまで伊藤さんが入れたことのある義歯は本当に小さな部分義歯で、これから装着する大きな義歯に慣れてもらえるかどうかは不安だ。

「今日、すぐにぴったりくるかどうかわかりませんが、必ず調整して直しますから心配いないでくださいね」

と、予防線を張っておく。鞄から取り出した上下の義歯に伊藤さんの視線はくぎ付けになる。

「まぁ、きれいねぇ」

まずは上から装着。残根上の義歯は入りにくいこともあるのだが、スッと入る。あえてここでは何も聞かず、下の義歯も装着してみる。多少、ワイヤークラスプがゆるく感じるが、まずは思惑通り。それから一呼吸して、

「伊藤さん、第1印象はどうですか」

「何かツルツルして気持ちいい」

と、笑顔に。こちらはほっと胸をなでおろす。

それから義歯周囲の適合チェック、大きさの確認、そして、咬合のチェックとひと通りの過程をこなすが、基本的に伊藤さんから不満の声は上がらなかった。

「伊藤さん、いきなりこんなに大きな入れ歯が入って、こんなにすんなり使える方はそんなにいないんですよ。伊藤さん、若いんですよ。適応力があるんだなぁ」

「えっ、そうなの。でも本当に気にならないわよ」

「すごいなぁ。でも伊藤さん。入れ歯は使ってなんぼですから、入れてるだけで問題なくても、これから痛みが出たりするケースはたくさんあるんです。次回はそういう調整をしますから、心配しないでくださいね。痛みがひどかったら外しておいて、次回僕が来た時にその場所を教えてくださいね」

伊藤さんは満面の笑み。白い前歯がまぶしい。荷物を片づけて帰ろうとすると、伊藤さんも玄関の方についてこられる。

「伊藤さん、ここでいいですよ。足、大丈夫ですか」

「今日は膝の調子が良いみたい。きっと明日は晴れるわよ。伊藤気象台はよく当たるんだから!」

風のいざない  第13話 「隔靴掻痒」     五島朋幸(新宿区)

鈴木清さんは脳梗塞後遺症で右半身に麻痺が生じてしまった。右利きだった鈴木さんは麻痺後、大分苦労されたらしい。しかし、そこは元エリート銀行マンの鈴木さん、できることはとにかく自分でやり、できないことだけは奥さまの幸さんに助けてもらう生活をされている。「私にやられたくないのよ、この人」というのが幸さんの評価であるが。ただ、どうしても自分でやりたいのだけど、どうしてもできないことがある。それが義歯を外すことだった。ふっと不満を漏らしたホームヘルパーが僕を紹介してくれ、訪問診療に行くことになった。

鈴木家のベルを鳴らすと、とても愛嬌のある笑顔で迎えてくださった幸さん。

「訪問の歯医者の先生でしょ。遠方までわざわざありがとうございます。さっ、さっ。入って入って」

と、こちらが声を出すすきもなかった。でも、その笑顔にとても親しみを感じる。

リビングに通されるとソファーに座った清さん。僕が部屋に入った瞬間は頑固そうなちょっと怖い顔をしていたけれど、一瞬にして満面の笑み。さすが元エリート銀行マン。

「どーも。さ、どうぞ」

僕は荷物を降ろし、ソファーにかけると

「鈴木さん、入れ歯の調子はどうですか」

とたずねた。

「いやね、入れ歯自体は良いんですよ。噛めるし、痛くもないから。でもね、外すときだけ困ってるんですよ。食事をした後に外そうとするんだけどねぇ…」

準備をして、さっそく鈴木さんのお口の中を拝見。下顎は左右にブリッジがあるものの歯列はそろっている。一方、上顎は左側は小臼歯のみ、右側は小臼歯と第2大臼歯のみ残存しており、そこに局部義歯が装着されていた。左側には1本、右側には小臼歯の近遠心から2本、そして大臼歯に1本のクラスプが付いていた。僕が両手で義歯を外そうとすると、そこそこの維持力があり、指先に少し痛みを感じるほどだった。

「これはいつ作られたんですか」

「入院中に病院で。1年くらい前かなぁ」

「その時から自分で外せないんですか」

と聞くと幸さんが、

「そうなのよ。うまく外れる時もあるんだけど、本当に外れない時は入れっぱなしにしとくのよ」

と言うと、ちょっといたずらっぽい表情をした。

鈴木さんに義歯を入れてもらうと、口の中でうまくコントロールして定位にカチッと収まる。それから、鈴木さん自身に外してもらうようお願いをした。まずは左手で左側のクラスプを外す。大分傾いてしまったところで右側の小臼歯部に手を持っていくが、左手がうまくクラスプをつかめない。何度もチャレンジするが空振りの連続。最後は、「あ~っ」といら立ちの声を上げた。

状況が少しわかったので1つアドバイスを。左側のクラスプは少しずらすだけにして、右のクラスプにアプローチしてもらう。今度は右側の小臼歯を少し下げるところまで来たが、大臼歯のクラスプが外れない。これだけの維持力があるのだから心配ないと考え、大臼歯クラスプの維持腕をニッパーでカチリ。鈴木さんの再々チャレンジ。

もう1度装着した義歯は「別に変らない」とのこと。先に左のクラスプをゆっくり下ろす。そこで幸さんが、

「全部外しちゃだめよ!」

と的確なアドバイス。その言葉を聞いてか聞かずか、今度は右の小臼歯部のクラスプをゆっくり下ろす。すると、カタッと入れ歯が外れた。無表情の鈴木さんを横目に幸さんが、

「お父さん、外れた、外れた。自分で外したわよ」

と大騒ぎ。

「これで私の仕事が1つ減ったわ」

という幸さん。鈴木さんはニヤッと笑った。

理事会声明

今改定は新政権による初の改定であり、10年ぶりのネットプラス改定となった。しかし、歯科の厳しい状況を改善するどころか大多数の歯科医院では2.09%にはとても届きそうもない内容であり、歯科の状況をさらに悪化させかねない問題点の多い改定内容である。

第1に、長期維持管理路線の復活・強化が行われている点である。財源の約7割を使い初診料を大幅に引き上げた。同時に歯周病安定期治療(SPT)へも前 回に比べ大幅な点数を配分した。技官会議でもSPTを「推進」し誘導を行っている。一方歯周治療は枠内操作による点数の付け替えに終わっており、再SRP やSPTで長期に管理しなければマイナスになってしまう。SPTは引き上げられたが、依然として歯周基本治療が包括されており納得ゆく点数ではない。低点 数による長期維持管理路線の復活・強化には反対である。

また、枠内操作では歯科医療は充実されない。総枠を広げて医療技術を評価するべきで、改定ごとの枠内の点数いじりでは現場が混乱するだけである。

第2にスタディモデル、歯管の内容の一部など包括が一層進んだことも問題である。技術料は個別に評価すべきである。協会は文書提供の評価も含め包括は即 刻改善するよう求めるものである。また、文書提供については文書量は減ってはおらず、逆に厳しさが増している。きちんと文書を提供できるよう、文書提供の 評価を求める。

第3に時間要件の強化が上げられる。訪問診療では、医科では廃止となった時間要件が歯科では一層厳しくなった。訪問一人目から時間による制限が新たに設 けられ、訪問診療を実施している医療機関ではこれまでの対応を変更せざるを得ず混乱をしている。時間要件は医科と同様に即刻廃止すべきである。

第4に新規技術導入が進まなかった点が指摘できる。08年改定では6技術が新たに保険適用となったが、今改定は医療技術評価分科会の検討結果からわずか1技術のみの導入となっている。学会等の要望に応え、新規技術の導入を積極的に進めるべきである。

第5に訪問歯科衛生指導料の引き上げや、術後専門的口腔衛生処置の新設など歯科衛生士の評価が進んだ点も大きな特徴である。術後専門的口腔衛生処置は手 術の項目に歯科衛生士が位置づけられたこととともに、医療の中での口腔ケアの位置づけが高まったことを評価したい。わずか20点であるが歯科科技工加算に より歯科技工士がはじめて点数表に位置づけられた意味も大きい。

以上のように、今改定はプラス改定の影に低点数による長期維持管理路線の復活・強化、包括化の推進などが進められた。まるでかつての「かかりつけ歯科医 初診料」の亡霊を見る思いである。患者が減少しつつある東京では今改定ではプラス改定とはならない、むしろマイナスとなる可能性が高い。包括した項目を元 に戻し、基礎的技術料を引き上げ、時間要件をなくすなど早急な再改定を強く要求する。

風のいざない 第12話  「母の顔」      五島朋幸(新宿区)

訪問看謹師の小出さんから昨曰連絡があり、江藤キヌさんのもとを訪間することとなった。江藤さんは末期がん。小出さんの「できるだけ早く」という口調からも、あまり時間かないことは感じられた。江藤さんのもとを訪間したのは、もともと入っていたアポイントの後。すっかり辺りは暗くなっていた。

江藤さんのお宅は木造平屋。少し建てつけの悪い引き戸を開け、「こんばんは」と声をかけると、娘の明子さんが出てきた。

「歯医者ですが、申し訳ありません」というと、「無理を申し上げまして」と深々と頭を下げられた。僕は「大丈夫ですよ。ご心配なく」とだけ答えた。

キヌさんの部屋に通されると少しくらい蛍光灯。部屋の温度が低いわけではないけど、背中のあたりにスーッとする冷気を感じる。そして、青白い顔で真上を向き、目を閉じているキヌさん。残されている時間がいくらもないことはすぐわかった。背後から昭子さんが寄ってきて、

「これが母の使っていた入れ歯なんですが、入れることはできませんか?入院する前からなので、1年以上は使っていないんですけど」

と申し訳なさそうに僕に渡した。決して大きくはない義歯だけど、あまりにもキヌさんの口が小さくなりすぎている。一応、口の前に義歯を近づけたけど全く入る気配すらしない。そこで、義歯を置いてまずキヌさんの顔のマッサージからはじめることにした。

ベッドの頭の部分に入ると上から頬、首、肩のマッサージを試してみる。途中で絹さんが「ウッ」という小さな声を上げたが、目を開けることはなかった。昭子さんはほぼ直立不動でこちらの様子を見ている。再び義歯を入れようと試みるが、どうしても入らない。明子さんは無表情のままこちらを見ている。

今度は、訪問用のマイクロモーターを取り出し、上下義歯の臼歯部辺縁を削合していく。静寂な空間に僕の手作業する音だけが聞こえる。熱くもないのに額に汗もにじんでくる。そして再びキヌさんの口元に入れ歯を装着しようとする。力を入れて唇を引っ張るキヌさんが眉間にしわを寄せた。「ハッ」と思い明子さんを見ると、同じように眉間にしわ。しかし、あと少し。

僕は、持っていた診療用セットから充填器を取り出し、球状になった部分で唇を引っ張り、上の義歯を入れる。すると意外と容易に口腔内に装着できた。もっと難しいと思われた下の義歯も同じ方法で装着できた。両方の義歯が口腔内に入った途端、安堵で僕のほうが「フゥ~ッ」とため息。キヌさんの眉間のしわも消えたように感じた。ちょっと落ち着いて振り返ると、深々と頭を下げている明子さんがいた。

翌日、診療室に小出さんから電話があった。

「先生、本当にありがとうございました。江藤さんは昨晩亡くなられました…。でもね、先生…。明子さん、私たちにあまり話をしてくださらない方なんだけど、今朝ね…。『母の顔で送ることができます』と言って涙を流して感謝されたのよ。ありがとう、先生…」

小出さんの涙声を聞きながら視界がにごった。

風のいざない 第11話  「ハーレム」      五島朋幸(新宿区)

山根秀子さんは、総入れ歯の調子が悪く3カ月前から訪問している。山根さんは御主人の治夫さんとふたり暮らし。秀子さんは脳梗塞を発症したのち、麻痺は残らなかったものの、ほとんど歩くことができなくなり、5歩進むのに3分以上かかってしまう。普段はテレビ正面の大きめのマッサージチェアに腰掛け、女王様のように君臨している。治夫さんの定位置は秀子さんのチェアと直角に位置する3人掛けソファのもっとも秀子さん寄り。僕は秀子さんの右隣りで治療をする。ここは僕の定位置。

治療のほうは順調に進んでいる。旧義歯の修理で落ち着かせ、新義歯を製作。その義歯も徐々に落ち着き、少し間隔をあけて様子をみることになった。

2週間ぶりの訪問。いつものようにドアベルを押すが反応がない。いつもなら治夫さんが出てきてくれるのだが、1分ほどしても反応がない。もう1度ドアベルを鳴らすも反応がない。仕方なくドアを叩いてみると、かすかに秀子さんの声がする。

「ちょっと待ってください」

それから2分ほどしてカチャッという音がして鍵が開いた。僕がドアを開けると、予想通り秀子さんが立っている。すぐに

「大丈夫ですか!」

と声をかけると、

「お父さんが帰ってこないのよ。どうしようかしら」

と気弱な声。ゆっくりゆっくり定位置のマッサージチェアに腰をかけたのはそれから3分後。秀子さんがチェアの横に置いてあった携帯を手に取り、治夫さんに電話をかける。

「お父さん、先生が来られているわよ。…そうよ、予定は3時だもの。もう3時でしょう…」

電話の向こうで治夫さんが謝る声がする。「もういいわよ。お財布はどこにあるの。わかったわかった。もういいわよ…」

いつもは温和な秀子さんの不機嫌な声、治夫さんには相当なダメージだろう。

「お父さん、昼はいつも喫茶店に行っちゃうのよ。すぐ下なんだけどね。毎日入り浸っちゃって。まったく」

と不機嫌さは変わらない。

さて、入れ歯のほうはと話を戻すと、

「先生、大分いいわ。食事をしていてほとんど気にならなくなったわ。よっぽど硬いものを噛むと左下が少し痛いけど、これくらいしょうがないでしょ」

「まあ、一度噛み合わせはチェックしましょうね。でも良くなりましたね」

そういうと、いつものように咬合紙をバッグから取り出した。

ひと通りのチェックを終えると秀子さんにこのまま使用してもらい、問題が発生するようだったら連絡してもらうように伝えた。

「あら、寂しいわね」

会計も無事終わり、荷物を整え、山根さんのお宅から次のお宅へと移動する。途中で治夫さんが行ったという喫茶店もあるので、もしタイミングが合うようだったら挨拶しようと考えた。いろいろとお世話になったし。

さて、治夫さんは…探すまでもなかった。喫茶店の店頭に置かれた3人掛けのイスの中央に陣取り、両脇にはかつての美女たち。

ふたりの女性に囲まれた治夫さんは、自宅でも見たことのないほどの満面の笑み。まさに至福の時を謳歌している最中だった。これじゃあ時間も忘れるよなぁ。

僕は声をかけることもなく、ハーレムを後にした。

風のいざない 第10話 「至福の一言」      五島朋幸(新宿区)

梅田ミチさんは、以前から義歯の調整にうかがっていた方だ。しかし、90歳の誕生日の日に脳梗塞を発症し、3カ月後に退院をされた。それから2カ月ほどしてから娘の恵子さんから連絡をいただき、再び訪問することになった。

久々に梅田さんのお宅に到着し呼び鈴を鳴らすと、恵子さんがいつものように笑顔で迎えてくださった。しかし、

「先生、ご無沙汰しております。母を見て驚かないでくださいね」

こちらも一応の覚悟はしてきたのだが、少し不安になる。ミチさんの部屋に行くと、以前は車椅子に座っておられたのだが、ベッドに横たわり、人相も大分変わっていた。鼻には酸素マスク、そして胃ろうも造設されている。僕はミチさんの手を握り、

「梅田さん、ご無沙汰しております。歯医者です」

と言うと、かなりしっかりとした表情でこちらを見てうんうんとうなずかれた。

恵子さんによると、脳梗塞後も体調は悪く、病院から退院許可が出なかったけれど、在宅主治医の先生にお願いをして、無理して退院してきたとのこと。その後も体調が悪く、生死をさまよったけれど、最近ようやく調子が良くなり、口から食べてほしいということから僕に依頼があったのだ。

もともとは上下の総義歯を装着していたが、入院中に外したままで現在は全く使用していない。そこで、嚥下のチェックをすることにした。意識もしっかりしているミチさんに、

「つばを1回、ゴクッと飲んでもらえますか」

と耳元で叫んだ。するとほどなく、自分のつばをごくっと飲む。のどの動きも悪くない。いや、驚くほどスムーズで力強い。今度は、恵子さんにお願いをしてとろみ剤を入れたお茶を用意してもらった。そして声をかけながら、ティースプーン1杯ほどのお茶を口に流し込んだ。これも力強く飲み込み、最後は「プハーッ」と息を吐いた。その姿に恵子さんも僕も思わず笑顔。

結局、飲み込みの力はまずまず期待できるので、日常の口腔ケアをしっかりしていただくこと、そして冷たいスプーンで口腔内を刺激する方法などを恵子さんにお願いした。

1週間後に訪問した時は顔色も良く、意識もしっかりされていた。恵子さんも

「最近よくしゃべるんですよ、何を言っているかはよく聞き取れないんですけれど」

「それはいい兆候じゃないですか。楽しみですよ」

氷水を用意してもらい、粘膜用ブラシで口腔ケア始めた。冷たい刺激にミチさんは少し顔をしかめたが、これも1つの良い兆候。そして僕はバックから嚥下用のゼリーを取り出した。今までの動きを見てきてゼリーを食べられると確信してはいるが、初めてのひと口はいつも緊張する。そこは悟られないように、ゼリーをティースプーンに乗せ、ゆっくりと口の中に運ぶ。それから唇をしっかりと閉じてもらい、そのままゆっくりとスプーンを引き抜く。するとすぐに、下顎が動き出し、10秒もしないうちにゴックン。それからもう10秒くらい様子を見ていたが、むせもしないし呼吸が変わることもない。心配そうに僕を見ていた恵子さんに、「しっかり飲み込めましたねぇ~、スゴイ」と言うと満面の笑み。まさにその時ミチさんが、

「ウンメ~!」

大爆笑。