訪問看護師の秋元さんから診療室に電話が入った。胃ろうを入れている女性だけれど、ご主人がとても熱心な方で、何とか口から食べさせたいとのこと。「先生しか頼む人いないんだから」とのひと言に安請け合いをしてしまった気もする。
まずは状況確認のために、僕ひとりで訪問することになった。三田梅子さんは何度か脳梗塞を繰り返し、両手はグーを握ったまま抱え込んだ形になっており、ベッド上で左を向いたままになっている。ご主人の春雄さんは白髪だけど、きれいに七三に分け、とてもキッチリされている。部屋も整理整頓されており、そのお人柄がうかがわれた。
「先生、どなたに相談しても、口からは食べられないって言われるんです。でもね、やっぱり少しでも口から食べてもらいたいんです。この人は食べた後、良い顔してたんですよ。もちろん多く食べてもらおうなんてことではないんですよ、ひと口でもいいんです…。ダメでしょうか」。
冷静で情熱的な言葉に、こちらもスイッチが入る。肩、首、頬を触り、ちょっと梅子さんの顔を覗き込んだ瞬間、ドキッ!とした。目が生きている。梅子さんは僕をしっかり見ているのだ。声も出ない、体も動かない状況の中で、しっかりと僕を見ているのだ。実は別の言葉を用意していたが、梅子さんの目にかけてみようと思った。
「ご主人、食べてもらいましょうよ。奥様に食べてもらいましょうよ。口から」
春雄さんは声も出さずに頭を下げた。
2回目の訪問ではいくつかの作戦を考え、歯科衛生士の原田さんと訪問した。梅子さんは自分の歯が多く残っているのだが、なかなか口をあけてもらえない。どうにかして口の中を刺激し、嚥下反射が起きれば、次への突破口となるはず。
梅子さんのベッドサイドに行くと挨拶をし、原田さんに口腔ケアをしてもらう。その様子を観察していたが、どうも先日のようなしっかりとした目ではない。春雄さんも何か気付いたのか、少し不安そうな面持ち。原田さんのケアが終わったところで、嚥下開始用のゼリーをスプーンにとり、口のほうへ近づけるが口は全く開かない。僕も耳元で声をかけたり、春雄さんが足を軽くたたきながら「おい、口を開けなさいよ」などと声掛けしてくださるも、反応はない。皮肉にもスプーンを置いてどうしようかと思ったときに大あくび。一同落胆。何とか口の中に入ってほしい。
次の作戦は、大きめのシリンジの先にゴムチューブを取り付け、補水液のゼリー状になったものを挿入していくというもの。偶然、梅子さんの右上の奥歯が2本欠損しており、ゴムチューブがそこから入るのだ。その隙間からチューブを押し入れ、左手でチューブを固定し、右手でゆっくり押し出してみる。3ミリリットル。チューブを引き抜く。1秒、2秒、3秒。反応がない。吸引しようかと思った瞬間、ゆっくりと口がもぐもぐし始めた。みんなが息を止める。その瞬間、大きな音でゴクリッ!3人タイミングを計ったように
「お~っ!」
と歓声が起きる。春雄さんが、
「先生、今のは飲めたんですよね。飲んだんですよね」
僕は大きくうなずいた。春雄さんも大きくうなずいた。少しだけ涙を浮かべて。
梅子さんは…どこ吹く風。少し自慢げに見えた。