巨星墜つ/100歳を超えなお生涯現役として医学界発展に尽力した日野原氏に対し心から敬意と感謝を表するとともにご冥福をお祈り申し上げます
巨星墜つ。
7月18日、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏が、呼吸不全のため亡くなった。105歳であった。葬儀は7月29日、青山葬儀所で行われた。
日野原氏は医業にとどまらず、多種多様な講演会活動、地域貢献活動に携わってきた。日野原氏は、1911年に山口県で生まれ、1937年に京都帝国大医学部を卒業。1941年に東京の聖路加国際病院に内科医として勤務を始めた。1992年には同病院院長、96年には理事長に就任。2005年には文化勲章を受章した。
日野原氏は、1951年から1年間留学した米国のエモリー大学医学部で、患者の人格や考えや意見、生き方そのものを尊重する「全人医療」を学びとり、帰国後は看護師育成を中心に精力的に取り組んだ。また、1954年には病気の早期発見と早期治療の実現を目指し、日本の民間病院では初の「人間ドック」を開設。また、「生活習慣病」という呼称を新たに考え定着させ、予防医療にも力を注がれていたことは記憶に新しいところ。そのほか、終末期医療の充実に向け、日本初の独立型ホスピスの創設にも携わった。
一方、小中学生を対象とした命の尊さを伝える活動として「いのちの授業」を全国で展開。また、自立して生きる新しい老人の姿を「新老人」と命名し、75歳以上の自立した老人で組織する「新老人の会」を設立した。
著作活動にも熱意を注ぎ、200冊におよぶ著作がある。特に2001年に出版した『生きかた上手』は社会的にも注目を集め、200万部を超えるミリオンセラーとなったほか、絵本『葉っぱのフレディ』のミュージカル向け脚本を執筆するなど、執筆活動は広範囲にわたった。
日野原氏はエピソードにも富み、1970年に赤軍派がハイジャックした日航機『よど号』に偶然、乗客として乗りあわせたほか、1995年の地下鉄サリン事件の際は、聖路加国際病院院長として、直ちに被害者の無制限受け入れを行い、率先して治療拠点としての役割を果たすとともに、被害拡大防止に尽力した。
100歳を超えなお生涯現役として医学界発展に尽力した日野原氏に対し、心から敬意と感謝を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。
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※なお、当協会の機関紙2010年5月号(第477号)では、当時98歳を迎えていた日野原重明氏のインタビュー記事を掲載しております。下記をご参照ください。聞き手は、藤野健正理事(当時、広報部長)で、場所は聖路加国際病院理事長室内。