都営アパートの下に自転車を置くと器材の入った重いバッグを持つ。
「よっこいしょ」と思わず声が出る。背中にはデイパックをかつぎ、3階まで階段で昇る。都営アパートにはエレベーターのないものも多い。ひと息つくと古びた呼び鈴を鳴らした。
「こんにちは、歯医者です」
「は~い。先生、時間ぴったりね」
と、出てきたのは徳丸和子さん。母親のトキさんとのふたり暮らしだ。
いつものように隅々まで整理整頓されている部屋の中に入る。6畳の部屋の真ん中に電動ベッドが置いてあり、トキさんが横たわっている。
「お母さん、歯医者の先生来てくださったわよ。お母さんの大好きな歯医者さんよ。よかったわね」
と微笑みながら和子さんが声をかける。しかし、多発性脳梗塞のトキさんがその声に反応することはない。僕も、
「こんにちは、徳丸さん。調子はどうですか。おや、今日は顔色が良いですね」
「まあ、お母さん。先生に褒められたわよ」
上品な和子さんのとても愛くるしい表情に、僕も自然と笑顔になる。
準備を終えると、さっそくトキさんの顔のマッサージ。決して硬直しているわけではないが、この1年間使われていない口は筋肉の張りを感じない。それでも「動け、動け!」と念じながら手を動かす。
頬が少し赤みを増した時、ゆっくりとトキさんの目が開いたが、すぐに閉じてしまった。首から肩にかけてのマッサージも終えると、粘膜用ブラシで口腔ケア。傷つけないように丁寧にブラッシングをする。
約15分の口腔ケアが終わる間際、和子さんがお茶を持ってきてくださった。
「先生、いつもありありがとうございます」
この半年間、月2回のペースでこの口腔ケアが続いている。しかし、トキさんには何の反応もない。この口腔ケアに本当に意味があるのか、僕にも疑問であるが、和子さんの笑顔に救われる。
それから2週間ほどたったある日、和子さんから診療室に電話があった。
「先生、昨日の朝、母が亡くなりました。長い間ありがとうございました」
いつものような明るい声ではなく、すべてを抑さえ込んだ冷静な低い声。少しの間が空き、「先生、母が亡くなる前の晩、『ありがとう』って言ったのよ。あの母が。何年も声を出したことがなかったのに。私の介護してきた2年間がすべて救われました。先生の口腔ケアのおかげよ。本当に、ありがとうございました」
最後は涙をこらえきれなかったようだ。
電話を切った僕は、ほっとため息をついた。僕の半年間も救われた。