到着したのは閑静な住宅街に立つ一戸建て。決して新しくはないけどしっかりとした造り。呼び鈴を鳴らすと、重そうな扉がきしんだ音をたてて開き、その重厚感とは似つかわしくない明る<高い声で、
「先生、どうも。遠い所をいつもありがとうございます」。
声の主は立野卓子さん。いつもの満面の笑み。
「さあさあ、どうぞ中へ中へ」。
と通される。ここまではデジャヴのごとく。ここからが少し違う。いつもよりいたずらっぽい目をしてこちらを振り返り、
「今日はできましたの?」
僕は声も出さずにニヤッ。
いつものように寝室に通されると、電動ベッドにはご主人の立野真さん。脳梗塞で右半身に麻痺はあるが、ふくよかで赤味のさしたお顔はいつも笑顔だ。立野さんの下顎は天然歯列があるのだが、上顎は残っていた7本全部の歯冠が折れてしまっている。そこに今日、オーバーデンチャーが入るのだ。真さんも開ロ一番、
「できましたかな」
「はい、持ってきましたよ。どうですかねぇ」
と、こちらももったいぶって少しスローモーションでじらす。バックに入っていた義歯を取り出すと、ご夫婦の視線が突き刺さる。期せずして、ふたりの口から「おっ」と声が漏れる。ふたりが準備を終えると、さっそく義歯を真さんの上顎に装着してみる。残根があり、骨ばった顎堤には慎重に入れていくが、意外とすんなり装着できた。しかし、これまで上顎前歯がなかったせいで、義歯が入ると口唇が突っ張る感じがある。「おやっ、前歯を出しすぎちゃったかな」と不安がよぎる。それでも口を閉じてもらうと、さほど不自然に感じない。先手を打って、
「今まで上の前歯がなかったので急に入れ歯が入ると出っ歯に見えるんですよ。でも、すぐに馴染むと思いますよ」
「いえいえ先生、本当にすごいわ。以前の顔に戻りましたよ」。
と、卓子さん。
「そうですか、良かった!緊張の瞬間でしたよ」
僕たちの盛り上がりをよそに、真さん本人はいたって無表情。卓子さんが、棚の上に置いてあった手鏡を真さんに渡すと、一瞬、口元を見てすぐに鏡を返した。まあ、見た目よりも噛めることが大切なのだから仕方がない。噛み合わせの調整も終え、痛みもないことを確認して診療終了。相変わらず笑頻満面の卓子さんは、
「真狸ちゃんが見たら喜ぶわよ。おじいちゃん、すごく若くなったって言われるんじゃないの」。
などと声が聞こえる。僕は洗面台で手を洗い、戻ってみると真さんが先ほど戻した手鏡を無表情にしげしげと見ている。しかし、僕の姿を見ると何もなかったかのように手鏡を卓子さんに戻した。多少は気になるみたい。孫の力は偉大だ。
次回の予約を取り、外に出ると手拭用のタオルを洗面台に忘れてきたのに気づいた。すぐに戻り、「ごめんなさい」と言いながらドアを開けてみると…。卓子さんが大きな鏡台を寝室に移動中だった。