宮本伸江さんは脳梗塞後遺症で右半身麻痺。ご主人の武さんとのふたり暮らし。でもそれは、正確な表現ではない。ネコの小次郎も家族の一員だ。小次郎は黒猫で、4本の足先だけ白い小型のかわいいネコ。いつも伸江さんのベッドの足先に陣取り眠っている。
「こんにちは、訪問歯科です」
と声をかけると武さんがドアをあけ、
「はい、こんちは!どうぞ!」
と中に通される。部屋に入ると伸江さんが笑顔でお出迎え、小次郎も目を覚ましたようで眠そうな目でこちらを見上げている。
「宮本さん、どうでしたか? 入れ歯の調子は」
「そうねえ、大分なれたんだけど噛んでいると痛みが出るのよ。前ほどはひどくないんだけど」
と言うと、自分で下の総義歯をはずし、この辺というように指差した。
「そうですか、物を食べないでカチカチやっても痛くなくて、食事をすると痛みが出るんですね。それはまだ僕が食事の時の力のバランスを読みきれていないせいだと思うんですよ。今日も噛みあわせの調整をしますね」
さっそく準備をしようと診療バッグを開けようとすると、ベッドから抜け出した小次郎がカバンのにおいをかいでいる。武さんが、
「これ、コジ!邪魔するんじゃない!」とハエをよけるような手まねをすると、小次郎は後ろの棚にピョンと飛び乗った。
さっそく診療開始。力のバランスを見ながらの噛みあわせの調整であるが、なかなか噛み方が安定しない。痛みのあるところに集中した力を分散させていく。上顎義歯に指を当て、咬合紙を口腔内に入れてカチカチ噛んでもらう。その結果を見ながら少しずつ調整をしていくが、お互いなかなか根気のいる作業である。安定したと思われたところで武さんに、
「例のものありますか?」
「おっ、いつものやつ。あるよ」
というと、太い筒状の缶を取り出し、中からおせんべいを1枚取り出すと武さんがそのまま伸江さんに手渡し、
「どうだ、食べてみろ!」
せんべいを左手で受け取ると大きな口をあけてかじりつき、ゴリッ、ゴリッと大きな音を立てて噛み始める。武さんの「どうだ」ということにも耳を貸さず、伸江さんの顎はマイペースに動く。それからゆっくり、
「今は痛くないねぇ」
「じゃあ、これでまた使っていただいていいですか。実際に食事をすると少し違いますからね。絶対に良くなりますから遠慮しないで、どんどん悪いところは言ってください」
武さんに視線を移すと、伸江さんと同じようにうなづいていた。
「さあ」と思って診療道具をしまおうと思うと、ナ、ナ、ナント!小次郎がカバンの中に入っているではないか。ビックリして「アッ!」と声を出すと、武さんがすぐにそれに気づき、「小次郎!お前は何をするんだ!」と大声で叫んだ。これには小次郎もビックリ。あわててバッグから飛び出ようとしたが、中にあったものに足を取られ、飛び出したとたんテレビ台の角に頭をぶつけてしまった。「ギャッ!」という声とともにその横の棚に飛び乗った。よほど痛かったのか、少し涙目でこちらを見ている。武さんが、「小次郎、今のはお前が悪い!」と、だめを押しをすると小次郎は伏せてしまった。哀愁漂う姿で。