風のいざない  第13話 「隔靴掻痒」     五島朋幸(新宿区)

鈴木清さんは脳梗塞後遺症で右半身に麻痺が生じてしまった。右利きだった鈴木さんは麻痺後、大分苦労されたらしい。しかし、そこは元エリート銀行マンの鈴木さん、できることはとにかく自分でやり、できないことだけは奥さまの幸さんに助けてもらう生活をされている。「私にやられたくないのよ、この人」というのが幸さんの評価であるが。ただ、どうしても自分でやりたいのだけど、どうしてもできないことがある。それが義歯を外すことだった。ふっと不満を漏らしたホームヘルパーが僕を紹介してくれ、訪問診療に行くことになった。

鈴木家のベルを鳴らすと、とても愛嬌のある笑顔で迎えてくださった幸さん。

「訪問の歯医者の先生でしょ。遠方までわざわざありがとうございます。さっ、さっ。入って入って」

と、こちらが声を出すすきもなかった。でも、その笑顔にとても親しみを感じる。

リビングに通されるとソファーに座った清さん。僕が部屋に入った瞬間は頑固そうなちょっと怖い顔をしていたけれど、一瞬にして満面の笑み。さすが元エリート銀行マン。

「どーも。さ、どうぞ」

僕は荷物を降ろし、ソファーにかけると

「鈴木さん、入れ歯の調子はどうですか」

とたずねた。

「いやね、入れ歯自体は良いんですよ。噛めるし、痛くもないから。でもね、外すときだけ困ってるんですよ。食事をした後に外そうとするんだけどねぇ…」

準備をして、さっそく鈴木さんのお口の中を拝見。下顎は左右にブリッジがあるものの歯列はそろっている。一方、上顎は左側は小臼歯のみ、右側は小臼歯と第2大臼歯のみ残存しており、そこに局部義歯が装着されていた。左側には1本、右側には小臼歯の近遠心から2本、そして大臼歯に1本のクラスプが付いていた。僕が両手で義歯を外そうとすると、そこそこの維持力があり、指先に少し痛みを感じるほどだった。

「これはいつ作られたんですか」

「入院中に病院で。1年くらい前かなぁ」

「その時から自分で外せないんですか」

と聞くと幸さんが、

「そうなのよ。うまく外れる時もあるんだけど、本当に外れない時は入れっぱなしにしとくのよ」

と言うと、ちょっといたずらっぽい表情をした。

鈴木さんに義歯を入れてもらうと、口の中でうまくコントロールして定位にカチッと収まる。それから、鈴木さん自身に外してもらうようお願いをした。まずは左手で左側のクラスプを外す。大分傾いてしまったところで右側の小臼歯部に手を持っていくが、左手がうまくクラスプをつかめない。何度もチャレンジするが空振りの連続。最後は、「あ~っ」といら立ちの声を上げた。

状況が少しわかったので1つアドバイスを。左側のクラスプは少しずらすだけにして、右のクラスプにアプローチしてもらう。今度は右側の小臼歯を少し下げるところまで来たが、大臼歯のクラスプが外れない。これだけの維持力があるのだから心配ないと考え、大臼歯クラスプの維持腕をニッパーでカチリ。鈴木さんの再々チャレンジ。

もう1度装着した義歯は「別に変らない」とのこと。先に左のクラスプをゆっくり下ろす。そこで幸さんが、

「全部外しちゃだめよ!」

と的確なアドバイス。その言葉を聞いてか聞かずか、今度は右の小臼歯部のクラスプをゆっくり下ろす。すると、カタッと入れ歯が外れた。無表情の鈴木さんを横目に幸さんが、

「お父さん、外れた、外れた。自分で外したわよ」

と大騒ぎ。

「これで私の仕事が1つ減ったわ」

という幸さん。鈴木さんはニヤッと笑った。