伊藤かずさんはご主人を亡くしてからひとり暮らし。大きな病気はこれまでなかったのだが、膝の調子が悪く、ひとりで外出はできなくなっている。ご本人はいたって元気なのだが、週2回行くデイサービス以外は家の中だ。
「こんにちは、伊藤さん、歯医者で~す!」
と声をかけると、いつものように奥の襖がすぐに開いた。
「はいはい、どうぞ」
と声はするが、姿は見せない。ベッドからゆっくり起き上がっているのだろう。慣れたもので「では入りますよ」と言いながら部屋に向かう。
伊藤さんは残存歯も多かったのだが、歯頚部で折れてしまい、数本を残して残根状態になってしまった。本人は「こんなに歯が悪くなってたんじゃぁ全部抜かないと駄目かしらねぇ」などと言っていた。しかし、痛みも出ていないし、まずは噛める状態を作る目的で残根上の義歯を製作し、今日装着することになっている。
部屋に入るとまさに上半身を起こし、ベッドサイドに座ったところだった。少し寝ぐせのついた髪型で眩しそうに僕の方を見て、開口一番、
「出来た?」
「はいはい、出来てますよ。どうですかねぇ」
と、こちらももったいぶって答える。しかし、これまで伊藤さんが入れたことのある義歯は本当に小さな部分義歯で、これから装着する大きな義歯に慣れてもらえるかどうかは不安だ。
「今日、すぐにぴったりくるかどうかわかりませんが、必ず調整して直しますから心配いないでくださいね」
と、予防線を張っておく。鞄から取り出した上下の義歯に伊藤さんの視線はくぎ付けになる。
「まぁ、きれいねぇ」
まずは上から装着。残根上の義歯は入りにくいこともあるのだが、スッと入る。あえてここでは何も聞かず、下の義歯も装着してみる。多少、ワイヤークラスプがゆるく感じるが、まずは思惑通り。それから一呼吸して、
「伊藤さん、第1印象はどうですか」
「何かツルツルして気持ちいい」
と、笑顔に。こちらはほっと胸をなでおろす。
それから義歯周囲の適合チェック、大きさの確認、そして、咬合のチェックとひと通りの過程をこなすが、基本的に伊藤さんから不満の声は上がらなかった。
「伊藤さん、いきなりこんなに大きな入れ歯が入って、こんなにすんなり使える方はそんなにいないんですよ。伊藤さん、若いんですよ。適応力があるんだなぁ」
「えっ、そうなの。でも本当に気にならないわよ」
「すごいなぁ。でも伊藤さん。入れ歯は使ってなんぼですから、入れてるだけで問題なくても、これから痛みが出たりするケースはたくさんあるんです。次回はそういう調整をしますから、心配しないでくださいね。痛みがひどかったら外しておいて、次回僕が来た時にその場所を教えてくださいね」
伊藤さんは満面の笑み。白い前歯がまぶしい。荷物を片づけて帰ろうとすると、伊藤さんも玄関の方についてこられる。
「伊藤さん、ここでいいですよ。足、大丈夫ですか」
「今日は膝の調子が良いみたい。きっと明日は晴れるわよ。伊藤気象台はよく当たるんだから!」