訪問看護師の秋田さんから訪問診療の依頼書が送られてきた。きっちりとしたタイプの秋田さんらしく、すべての項目にもれなく、きっちりとした楷書で書かれている。ただ、右下に余白の部分に少女のような字で「先生よろしく♡」と意味深な言葉が。
紹介された水田ヨシ子さん87歳は、認知症が進行しているとのこと。入れ歯の調子が悪いとのことで依頼を受けたが、認知症と入れ歯の調整。なかなか相反する関係である。水田さんのお宅は都営アパートで、娘さんとふたり暮らし。さっそく呼び鈴を鳴らし、
「こんにちは、訪問歯科です」
と声をかける。すると少し焦った感じで娘の友子さんが出てこられた。こちらはあいさつするが、あまり僕の目を見ることもなく「さっ、どうぞ」と奥の部屋に通された。
電動ベッドで僕たちに背を向けるように横になっている水田さん。軽く肩に手をやり、あいさつをすると、ゆっくりとこちらの方に向き直り、眉間にしわを寄せ、
「なんだ~、この野郎!」
とドスの利いた声。ファーストインプレッションとしては最悪。まあ、何もなかったように、
「水田さん、入れ歯の調子はどうですか?入れ歯の調整をしに来ましたよ」
「なに~?何いってんだよ」
この埒のあかない状況にすまなさそうに友子さんが、
「いつも下の歯を外しちゃうんです。多分、左側だと思うんですけど、いつも触ってるんですよ」
というヒントをくれた。それではと思って
「水田さん、入れ歯を外していただいていいですか?」
と言っても反応はない。やむなく口に手を入れて外そうとすると
「何するんだ、このやろ~っ!」
と言われても、プロの技で上下の総入れ歯をすばやく取り出した。入れ歯を取られた水田さんは、何もなかったようにしょんぼりしている。下の入れ歯は何度か修理を施されており、レジンが段差になったり、一部欠けているようなところもある。
「水田さん、お口の中、拝見しますよ」
と言いながらこちらも身構えたが、何の抵抗もなく、いや、とても素直に口を開けていただいた。懐中電灯をあてて見てみると、左側の舌側に1センチほどの傷があった。
「水田さん、痛かったでしょう。結構大きな傷がありますよ。我慢していたんですね」
「そうなんですか、傷があったんですか」
と友子さん。なにやら期待できそうな展開に、少し笑顔が見える。さっそく傷の部分の調整。再び口腔内に戻してみる。「どうですか」とたずねても口をモグモグ動かすだけで表情に変化はない。
「どうなの、お母さん。痛みはないの?」
するとモグモグしていた口を止め、
「痛くない。痛くないよぉ」
「母さん、良かったじゃない。大丈夫なの」
すると水田さんは僕の方を向き、
「良く出来ました。パチパチパチ。良く出来ました。パチパチパチ。」
友子さんも僕も吹き出してしまった。その雰囲気に水田さん自身にも笑顔が。
「水田さん、笑顔が素敵じゃないですか」
「なに~?何いってんだよ!」
僕たち大爆笑。