風のいざない 第19話 「 入れ歯をつかう体」      五島朋幸(新宿区)

紹介をしてくれたのはケアマネジャーだった。腎臓の病気で入院していて退院してきたが、痩せてしまったせいか、入れ歯が合わなくなっているのでみてほしいという依頼だった。

夏のある日、吉田一郎さんのところへ初めて訪問した。呼び鈴を押して出てこられたのは奥さまのヨシ子さん。小柄で品のある方だった。

「このたびは無理をいいまして申しわけありません」

と丁寧なご挨拶。さっそく通された部屋の電動ベッド上に一郎さんは寝ていた。顔色はお世辞にも良いとはいえないが、骨太でがっちりとした体形で、ヨシ子さんとは対照的だった。

「こんにちは、歯医者です。吉田さん、調子はいかがですか」

「えぇ、まあまあです」

とはいうものの、声は小さくしわがれていた。ベッドサイドには総入れ歯が上下で置かれていた。こちらも準備を整え、さっそく現状の義歯を口の中に入れてみた。顎の土手は太くてしっかりとしているのだが、上下とも吸着感はどこにもない。

「吉田さん、お痩せになったんですねぇ。入れ歯のほうを直していきますからね」

といって上下リベースを行った。この顎の土手をもってすれば、かなりしっかりするだろうと楽観していたのだが、リベース後の吸着感もいまひとつ。ちょっと落胆しながらまずは使用してもらうようお願いをした。

次に訪問した時、玄関先でヨシ子さんに

「どうですか、入れ歯のほう」

とたずねてみるが、

「えぇ、まぁ、そうですねぇ」

とうかない返事。一郎さんのところへ行き、同じように聞いてみても

「そうですねぇ」

と小さな声。とはいえ、義歯のチェックをしても決して悪いところはない。ただ、吸着がなく、安定感がない。ためしに、上下の入れ歯を入れた状態で、僕の両手の人差し指を臼歯部に入れ、思いっきり噛んでもらった…。予想通り。痛みすら感じない。そこでご夫婦に、

「入れ歯っていうのはただの道具ではないので、使いこなすだけの機能がないとだめなんです。吉田さんは入院中から入れ歯を外していたので、入れ歯を使いこなす機能が落ちてきているようです。歯科衛生士さんにお願いして、お口のリハビリもやっていきましょう。それに合わせて僕も入れ歯の調整をしていきます」

と伝えた。僕はその場で歯科衛生士の原田さんに電話をして吉田さんのアポイントを取ってもらった。

2ヵ月後のある日、久々に吉田さんのお宅を訪問した。呼び鈴を鳴らすとヨシ子さんが満面の笑みで出てこられた。

「ご無沙汰しております。吉田さん、いかがですか?」

するとヨシ子さんがいたずらっぽい顔をして

「とにかく見てくださいよ」

部屋に行くと、とにかく顔色が良く、満面の笑みをした一郎さんがVサイン。

「すごいじゃないですか、どうしたんですか」

と聞くと、ふたりとも話したがった空気をヨシ子さんが制し、

「原田さんが良くしてくれてねぇ。とにかく食べられるようになったんですよ。食べられるようになったら入れ歯も安定してねぇ。今では何でも食べられるんですよ」

すげぇ~と思っている僕がしゃべる前に再びヨシ子さん。

「入れ歯って、形だけ良くすれば使えるんだと思ってましたけど違うんですねぇ。使える体があって、初めてうまく使えるんですねぇ」

それ以上、僕がいう言葉はなかった。