細田照子さんは脳梗塞を繰り返し、寝たきりになって約2年。ケアマネジャーの堀川さんから、口腔ケアと飲み込みの状態を診てほしいと依頼があった。初診時、歯科衛生士の原田さんと一緒に訪問することにした。
細田さんはご主人の文明さんとふたり暮らし。僕たちを迎えてくれた文明さんは、ちょっと頑固そうな顔付きであったけど、優しく僕たちを照子さんのところへ案内してくれた。
「こんにちは、細田さん。歯医者です」
と声をかけると、照子さんは眼をぱっちりと開いてウンウンとうなずいておられる。声は出ないが、表情も豊かで僕たちを歓迎していただいているようだった。口腔内を見ると、歯が10本ほど残っており、上下とも部分入れ歯が入っている。すごく不潔ということではないが、磨き残しも結構ある。次に、文明さんに普段の食事介助の様子を見せていただく。電動ベッドをギャッジアップし、市販の嚥下食をスプーンでどんどん口の中に入れ込んでいく。照子さんはだんだん口がいっぱいになり、最後は口を動かすのをやめた。文明さんがティッシュを口元にやると、照子さんは口の中に残っていたものを吐き出した。原田さんと目を合わせたが、言葉を交わすまでもなく、問題点は山積。
「細田さん、いくつか修正できる点があると思いますよ。歯が残っていて部分的な入れ歯を入れている方は、口のケアをするのがとても難しいんです。いつも歯ブラシしていただいてると思うのですが、プロの歯科衛生士にも来てもらって、仕上げ磨きをするようにしましょう。食べる時は、ひと口ひと口、しっかり飲み込んでから次のひと口を食べてもらうようにしましょうね。歯科衛生士も飲み込むための訓練ができますから、お口のケアと一緒にやっていきましょう」
文明さんは「なるほど~」という表情で僕の説明を聞いてくれた。
翌週から訪問してくれた原田さんから意外な報告が入った。
「ご主人は自分のやり方が正しいと思っていて、全然いうこと聞いてくれないんですよ」
そして翌週には
「口のケアは俺がやってるから歯科衛生士は来なくていいっていわれました」
ケアマネジャーの堀川さんにその件を伝えると
「そうですかぁ。ご主人そういうところあるんですよ…」
本当は1ヵ月後に訪問予定だったのを早め、翌週訪問することに。僕の訪問の意味を文明さんは十分に分かっているようだった。顔を見ても笑顔はなく、「どうぞ」とだけ言って後ろを向いてしまった。こちらは何事もなかったかように、
「こんにちは、細田さん。歯医者です。覚えてますか」
というとにっこりと笑顔になった。隣のリビングに座っていた文明さんのところへ行き、「どうですか」と声をかけてみる。
「僕はね、ちゃんとやってるんだよ」
と吐き出すように言い、1冊のノートを僕に見せた。そこには小さな字でぎっしりと今までの介護記録が書き込んであった。
「細田さん、僕たちは細田さんがすごく熱心に介護されていることを知っていますよ。だから、ご主人が少しでも楽になればと思っているだけですよ」
文明さんが少し顔を上げた。
「まずは僕が、1カ月に1度、様子を見に来るようにしましょうか。その代わり、最初は1つだけ。ひとくちお口に入れたら、しっかり飲み込むまで次を入れない。それだけでどうですか」
文明さんは少し面白くなさそうな表情は残しながら
「それからやろうか」
と言うと、口元に少しだけ笑顔が戻った。