風のいざない  第26話 「笑顔」      五島朋幸(新宿区)

高崎幸一さんには脳梗塞の既往がある。80歳を超えた頃から数回、誤嚥性肺炎で入院もしている。前回入院した際、病院で嚥下機能回復訓練を受けたにもかかわらず、肺炎を発症してしまい、医師からは口から食べるごとは不可能といわれてしまった。しかし、幸一さんの食べたいという気持ちが強く、奥さまの秀子さんが在宅主治医に相談し、僕の所へ依頼がきた。とはいえ、訪問看證師も経口摂取に対しては消極的で、かなりの制約付きである。こういう時は歯科衛生士の原田さんと訪問栄養指導をしてくれる管理栄蓑士さんの水沼さんの出番だ。

初回から原田さん、水沼さんと3人での訪問。今回に限っては目標設定がとても難しい。病院での訓練でも、食べられるようにならなかった高崎さんである。不用意に食べられることを確約してしでうと、本人の期待ばかり先行し、将来大きな失望につながりかねない。

高崎さんのマンションで出迎えてくれたのは、奥さまの秀子さん。

「このたびは本当にありがとうございます。よろしくお願いいたします」

と丁寧なあいさつ。僕たちは奥の部屋に通された。幸一さんは電動ベッドの脇に腰掛けていた。

「ごんにちは。よろしくお願いいたします」

と抜拶すると、深々と頭を下げられた。

さっそく僕は歯のチュック。何と、ブリッジが2カ所ある以外は、しっかりとした白分の歯であった。喉の状態、首、肩の柔軟性を確認ずると、水沼さんに「お願い」と声をかける。水沼さんは用意していた嚥下用のゼリーを取り出し、小さいティースプーンで1杯すくい、

「高崎さん、これからお口の中に入れますので、しっかりゴクッと飲み込んてください」

と声をかけた。幸一さんの目は輝く。秀子さんは不安そう。僕は両者を冷静に見ながら無言でいた。

水沼さんのスプーンが口の中に入ると、幸一さんは口を閉じる。スプーンが抜かれるとみんなの目が幸一さんの口元に集中する。秀子さんなどは何か言おうとして固まった姿のまま固唾を飲んでいる。頬、唇、そして顎。微妙な動きに視線が集まる。3秒、5秒、10秒。その時、喉仏がグーと引きあがり「ゴクン」と音がした。幸一さんが顔をあげ、水沼さんの方を向き

「飲み込めました」

とひと言。秀子さんは魔術が解けたかのように、ホッとした顔に変わる。しかし、僕も水沼さんも原田さんも、表情を変えていない、10秒、20秒、30秒。幸一さんに目立った変化はない。そごで僕が、

「大丈夫でしたか」

と笑顔でたずねると、幸一さんがニコッと笑った。それを見てようやくみんなが笑顔になった。

「奥さん、本当に少しずつですけれども、食べる訓練をしていきましょう。成功の階段は小さいけれど、積み重ねていけば必ず良い緒果が付いてきまず。でも、うまくいかないこともあると思います。僕たちのほうでコントロールしますから、失敗しないよう頑張りましょう」

と伝えた。

そこへ元気な男の子の声。

「ただいま!」

同居してる小学校1年生の幸彦君。「おばあちゃん、お客さん?」

「そうよ。おじいちゃんが食べて元気になるようにしてくれる先生よ」

「こんにちは!  僕、おじいちゃんとファミレスに行く約束してるの。僕はハンハーグ。早く治してね!」

みんながいい笑顔になった。ずごくいい仕事をしている気がした。