西条孝子さんは93歳。誤嚥性肺炎を発症し、入退院を繰り返している。病院の医師は胃ろうにしろと迫ったが、家族は悩んで在宅の主治医に相談した。その在宅主治医から僕も相談を受け、ご家族や本人が望んでいないのなら、もう1度在宅に戻ってもらい、肺炎予防のケアをしてみようということになった。
西条さんの退院時カンファレンスには、在宅主治医、訪問看護師、ケアマネージャー、そして歯科医師、歯科衛生土、管理栄養土と顔をそろえた。病院の医師からは淡々と病状の説明があり、「これで胃ろうにはしないって、家族が言うんだから、こっちには責任がない」と言わんばかりの態度だった。僕のほうからも嚥下機能についての質問をしたが、「内視鏡検査をした耳鼻科も食べるのは無理だって言っています」とバッサリ。まだ西条さんにお会いしていないが、状況は極めて厳しい。カンファレンスルームを出た在宅スタッフは、一様に暗い顔をしていた。
病室に移動し、顔合わせ。僕の方としては、挨拶だけして終わるつもりだった。在宅主治医の話が終わると、僕が西条さんのベッドサイドに。マスクをしているが、意外にも眼の輝きはあり、こちらをしつかり見ておられる。
「はじめまして。歯医者です。西条さん、ロから食べられるといいですねぇ。がんばりましょう。西条さんは何が食べたいですか」
とたずねると、大きく、しっかりした声で、
「アンパン!」
これにはベッドを囲んでいた在宅スタッフからも笑顔がもれた。
「じゃあ西条さん、アンパンが食べられるようになりましょうね。ちょっとお口を見せてください」
と言い、マスクをはずして、懐中電灯で口の中を観察。驚くなかれ、ブリッジが3カ所に入っているが、歯列はそろっている。しかも、カラッカラに干からびた口の中は茶色い膜が全体に張った状態。ギョッとして病棟看護師に、「口腔ケアはやってるんですか!誤嚥性肺炎の予防は口腔ケアですよね。なんで、こんな状態にするんですか」
と興奮して声をかけた。
「ごめんなさい…。嚥下できないから水を使うなって言われているものですから」
ひとりの看護師を責めても仕方ないことだし、とにかくこんな状態にはしておけない。歯科衛生土もいたが、自ら歯ブラシを持ち、口腔ケアをすることに。最初は指で保湿剤を全体に塗布し、今度はブラシに保湿剤を付けてゆっくりブラッシング。膜になったものが大量に取れてくる。ある程度取れたところで残った歯をブラッシング。
これまでブラッシングのされていない歯肉からは出血があったが、丁寧にブラッシングを繰り返す。10分ほどかけて口腔ケアを終了すると、ピンク色の歯肉が現れた。大人げない行為だとは分かっていたが、無言で病棟看護師をにらみつけた。彼女はうつむいていた。
一転満面の笑みで西条さんに、
「退院したら絶対に口から食べるようになりましょうね。アンパンは僕がおごるから!」
西条さんは笑顔でこっちを見てくれた。
病院からの帰り、歯科衛生士と一緒だったが、あまり会話は弾まなかった。口腔ケアが広まっているなんて、ただの幻想。これが現実というものを突きつけられた気がした。高齢社会において歯科の果たす役割は大きい。義歯にしろ口腔ケアにしろ嚥下障害にしろ。まだまだこれから。