映画紹介⑪ 「愛、アムール/Amour」
【2012年仏・独・墺合作/ミヒャエル・ハネケ監督】
「消防署です」
「誰かいますか?」
室内に異臭が漂っています。部屋には大きなグランドピアノがあります。消防署員が室内を捜査しています。寝室ベッドには枕もとに花が散りばめられ、綺麗に身なりを整えられた老婆が弔われたかのように横たわっています。死後、何日も経っています。映画はここから始まります。
舞台はフランス。とある閑静なパリの高級アパルトマン。元音楽教師の八十代の老夫婦が平穏に暮らしています。朝食中に、突然、妻が人形のように、動かなくなってしまいました。
「どうしたんだ?」
「アンヌ、わたしだよ」
検査の結果、内頸動脈動脈狭窄症による発作だと分かりました。
この病気の怖いのは、大脳への血流が不足し、狭窄部に形成された血栓は、はがれて脳に飛び、一過性の虚血発作や脳梗塞を引き起こしてしまいます。
半身の運動障害や知覚障害、失語症、言語障害、構音障害、顔面下半分の麻痺、認知障害などの脳障害の症状が次々に起こり、顚末は悲惨です。
妻の狭窄部の掻爬手術はうまく行かず、結局、右側四肢の麻痺から車椅子の生活になってしまいます。
長年にわたって連れ添ってきた健康時の、いわば対等な夫婦の関係が一変し、介護される者と介護する者の関係に置き換わり、互いに不安に満ちた生活が始まります。
映画は、この2人の間にいまにも良からぬ何かが起きそうな予感を感じさせ、見る者をハラハラさせるサスペンス・ドラマとなっています。
元音楽教師の妻は気性が荒く、引き下がることの苦手なプライドの高い女。夫は相手に譲るタイプの主体性に欠けがちな優しい男です。2人の関係は補完関係にあり、良好な男女関係でした。
しかし妻の身体が半身麻痺で、移動も、食事も、トイレも夫に依存せねば生きて行けなくなると、自尊心の強い女には耐えがたい屈辱です。
男が妻の介護をする姿は、傍から見ると美しい愛に見えるものの、その愛は深刻です。
「どちらにしろホスピスに送られるだけだ」
夫は雇っていた看護師もヘルパーも娘の手伝いもみな断ってしまいます。
「あなたには感謝しているけど」
「もう終わりにしたいわ」
夫は鍵を掛け、誰も中に入れなくしてしまいます。
「水を飲まないの?」
「脱水で死んじゃうよ」
口に含んだ水を夫の顔にツバと一緒に吹っかけようとします。夫は思わず、妻の顔を引っ叩いてしまいます。夫は、妻の依存を一身に受けている喜びを失い、やがて妻の顔を枕と布団に埋め尽くしてしまいます。
この映画は第六十五回カンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞しました。
「ファニーゲーム」「白いリボン」のミヒャエル・ハネケ監督が描く追い詰められた老夫婦の「愛、アムール」と、谷崎潤一郎の「春琴抄」の「偏愛」とが重なるのを感じます。 (竹田正史/協会理事)