第7回 世界的な感染拡大をプラスに転じる

【危機感だけでなく将来の可能性にも目を向ける】

新型コロナウイルス感染症(以下、「COVID―19」)の拡大が止まりません。歯科医療界でも、大規模なデンタルショーや学会などが軒並み中止となり、歯科大学の卒業式も中止、規模縮小などが相次いでいます。

こうした事態に対し、WHO(世界保健機関)はパンデミックを宣言。2019年3月25日には「不要不急の外出を控えてほしい」との小池百合子東京都知事の発言が、都民に緊張感を与えました。

一方、権威ある学術雑誌を含め、これまでとは想像できないほどのスピードで、次々に感染経路、病態の変化、予防法、治療法などについての情報発信が続いています。

◆黒死病で整った社会制度

中でも、中国大陸とシンガポールからの発信が目立ちますが、防疫施策では遅れが指摘された中国が、その一方で冷静な目で状況を把握し、膨大な医学業績を蓄積しつつあることは注目に値します。

感染症対策に限らず、社会的に大きなインパクトのある事故や災害が発生した場合、継続的なデータ収集と分析が、その後の対応に活かされることが多いもの。特に、今回のCOVID―19では、台湾政府の対応が適切、迅速、徹底的だとして高く評価されています。これは、過去のSARS対策での苦い経験を踏まえたものと言われています。

ヨーロッパの代表的な防疫施策は、いずれも14世紀から19世紀まで断続的に流行した黒死病(現在では、ペストだけではないとされている)への対策がルーツです。代表格は以下の3つで、現在の感染対策に反映されています。

①汚染地域からの人や荷物を一定期間、上陸させないで監視する検疫(イタリア)

②地域の衛生行政のセンターとなる保健所(フランス)

③住民の死因を記録、発表 する死亡統計表(イギリス)

◆「歯の病気」が死亡統計表に

死亡統計表は19世紀初頭まで断続的に発行され、その後の疫学調査やエビデンスに基づく医療・保健に直結しました。

ロンドンとその周辺において、最小の行政単位である教区ごとに毎週木曜日に発行され、一般の人も読むことができました。

当初、ペストでの死亡者数の変化を追うことで、危険な地域を特定することが目的でしたが、ペストの流行が一段落すると、別の死因が数多く記録されるようになります。例えば、17〜18世紀の記録に「Teeth」と「Dentition」との記録が非常に多く見られます(厳密には歯科疾患ではなく、乳歯萌出時の胃腸疾患)。この病気での死亡者数が、17世紀の資料ではペストなどと同程度だったことが分かります。

これらを記録したのは、教区の事務官です。そのため「医師でない素人による記録」だとされ、死因統計に用いられにくかった資料です。しかし、それら素人が100年単位で記録し続けた伝統が、大規模な疫学調査を可能にしたことが重要といえます。その後、コレラや壊血病の予防につながる疫学研究で、イギリスが世界をリードしたのは、こうした統計の経験があったからに他なりません。

現在、われわれを苦しめるCOVID―19の感染拡大も、社会に新たな仕組みや技術をもたらしてくれるかもしれません。危機感に煽られるだけでなく、そうした将来の可能性にも目を向けておきたいものです。

 

【略 歴】水谷惟紗久(みずたに・いさく): 株式会社日本歯科新聞社『アポロニア21 』編集長。1969年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。慶応義塾大学大学院修了(文学修士)。早大大学院修了(社会科学修士)。社団法人北里研究所研究員(医史学研究部)を経て、1999 年より現職。著書に「18世紀イギリスのデンティスト」(日本歯科新聞社、2010年)など。2017年大阪歯科大学客員教授。2018年末、下咽頭がんにより声を失う。