【連載】退き際の思考/「最善の治療を目指し」勤務医として34年 退職後も歯科と関わる人生を模索中(松井裕子さん【前編】)

「最善の治療を目指し」勤務医として34年 退職後も歯科と関わる人生を模索中(松井裕子さん【前編】)

「最善の治療を目指し」勤務医として34年 退職後も歯科と関わる人生を模索中

松井裕子さん―前編

松井裕子(まつい・ゆうこ)さん/1951年東京都生まれ。1976年東京医科歯科大学歯学部卒業。補綴学教室で1年間の副手・医員を経て、1981年同大大学院修了後同医局に助手として勤務。1990年4月より宮内庁病院へ出向。2017年3月、定年。非常勤歯科医師として同病院勤務。2024年、退職。

 歯科医師としての“引退”に着目した本企画。すでに歯科医療の第一線を退いた先生にお話を伺い、引退を決意した理由や、 医院承継、閉院の苦労などを深堀りする。
 今回は、大学助教を経て東京・千代田区、皇居の東御苑に所在する宮内庁病院で34年にわたる歯科医師キャリアを過ごした松井裕子先生(72歳)にインタビューした。退職後も「歯科に携わり続けたい」と語る松井先生の想いを2回に分け、紹介する。

―まずは歯科医師になったきっかけから教えてください。

高校時代に進路を決める時に、先祖代々歯科医師の家系でこの世界に馴染みがあったこと、歯科医療は社会的に貢献できること、女性も手に職をつけておくべきだと考えていたこと、手芸や縫い物など手仕事が好きだったことなどから、歯科医療の道に進むことにしました。卒後も研修が必要と感じ、以前から教育分野にも興味があり、教育・研究・診療を3本柱とする大学なら学生教育に関わることもできると思い大学の医局に残りましたが、最終的には、30代後半から勤務医としての歯科医師人生を歩むことになりました。

―ご実家は歴史ある歯科の家系と伺いました。

先祖は、日本で最古の歯科医師とも言われる松井源水で、両祖父は開業医、両親・兄とも歯科医師、父は18代目にあたり、歯科大学の教授をしていました。手元にある資料には、先祖が浅草公園で独楽回しをしている時に、徳川将軍が見に来たという記述もあります。祖父は私が小さい頃に亡くなったので直接話を聞いたことはありませんが、「祖父の代までは浅草で歯の薬を売ったり、曲独楽をしながら患者さんを集めていた」という話を父から耳にすることもありました。その後、浅草一帯は関東大震災や戦災で焼失し、浅草から動かざるを得なくなり、先代の歯科医院は閉院したのではないかと思っています。

「素晴らしいこと」病院勤務を回顧

―それでは、宮内庁病院で勤務することになった経緯は。

大学助手(現在の助教)として9年程勤務する中で、いわゆる“ガラスの天井”にぶつかることも多く、限界を感じていた頃に、出向の打診をいただき、縁あって宮内庁病院で勤務することになりました。年齢的にも体力的にハードな仕事はできないと感じていた時期でもあり、公務員としてなら時間的に周囲に迷惑をかけずに勤務できると感じたことも決め手となりました。

―宮内庁病院について教えてください。

保険請求や窓口負担などは一般的な歯科医院と何ら変わりありませんが、患者さんは基本的に宮内庁や皇宮警察の職員が中心です。着任時は常勤歯科医師1名、非常勤歯科医師2名、コ・メディカルは常勤看護師2名、非常勤歯科技工士1名という構成でした。歯科衛生士がおらず、細かなことはほとんど1人でやることとなり大変でしたので、事務方に何年も粘り強く必要性を説き、10年以上経ってようやく非常勤の歯科衛生士を採用してもらえることになりました。着任からしばらくの間は消耗品の購入予算も少なく、予算内に収めるために看護師と毎月「ダイエット、ダイエット」と言いながら、請求物品を絞り込んでいました。また、看護師は毎年1人ずつ交代するので、物品名を一から覚えてもらわなければならない上、歯科衛生士に比べると歯科診療に関われる内容が限られるので、TBIを自らして患者さんに驚かれたりしました。

―病院勤務を振り返ってみていかがですか。

病院は国の機関なので、経営面の心配はありません。予算に縛られるため、機器の導入の難しさなどはありますが、一人ひとり丁寧に時間をかけて、可能な限り最善の治療を目指しながらできたのは素晴らしいことだと思っています。また、仕事以外に宮内庁ならではの貴重な経験もできました。一方でやり残したことは、多々あります。私が医長だった頃は、自費診療の料金体系を作ることを何回も申請しましたが動いてもらえず、補綴診療に苦労しました。現在の医長の下で体系は整ってきたのですが、もっと早く実現できていたらと、残念に思っています。また、常勤の歯科衛生士を採用してもらえなかったのもやり残したことの1つです。他省庁の常勤歯科衛生士が出向していた期間があり、その時は仕事もはかどり、やはり歯科衛生士の存在は有難く大きいと思いました。

退職後も患者の「役に立ちたい」

―そこから退職までの経緯を教えてください。

65歳の定年まで勤務した後、新医長を支えるために、週3日の非常勤勤務に就きました。それまで担当していた患者さんの治療を完結させるため、徐々に日数を減らしながらソフトランディングをしようと思っていたのです。今年度あたりから週に2日、1~2年後には週に1日くらい勤務すれば大きな補綴なども完了する見通しでしたが、病院の方針もあり、今年3月いっぱいで勇退することになりました。本来であれば、最後まで責任を持って治療を完成させたかったのですが、それを叶えることはできなくて残念です。患者さんにその旨を伝え、他の先生を紹介するなど対応も大変でした。

―退職してもなお歯科医師を続けたい、どんな思いからでしょうか。

大学を24歳で卒業してから半世紀近く歯科医師としての研鑽を積み、仕事中心の生活を送ってきました。一人前の歯科医師になるために、たくさんの方たちのご指導を受け、多額の税金も注いでもらったことを考えて、恥ずかしくない仕事をしてご恩をお返ししたいという気持ちで頑張ってきました。その間に培った知恵や技術を活かしたいと思うのは、自然なことかなと感じています。また、途中で手を離さなければならなかった患者さんたちから、「次の場所が決まったらぜひ治療をお願いしたい」というお言葉もいただいたので、ありがたく思うとともに役に立ちたいという気持ちは残っています。(つづく)

後編では、歯科医師としての今後の見通しなどを伺う。

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